心臓核医学の祖、
Dr. Edward A. Carr, Jr.
との劇的な出会い

ロゴ

文責  山本内科耳鼻科院長 山本秀平 (2003/9/6)


スタートに戻る 学術コーナーに戻る

米国人の薬理学者エドワードカー先生、彼は私にとっては生涯の恩師です。 筆者は1986年にニューヨーク州立大学医学部バッファロー校に留学しましたが、 当時、彼は同大学の薬理学主任教授でした。

さて1980年代から世界規模で心臓核医学という学問が盛んになり、いわゆるフィーバーし、以来、 この臨床検査法は普及し続け、病院での一般検査となり、今日に至っています。 そして彼こそ、ハーバード大学医学部をご卒業され、1960年に弱冠30歳の若さにしてミシガン大学の教授に就任後すぐに、 つまり80年代の心臓核医学勃興のはるか20年以上前にその基礎を築いた 心臓核医学の生みの親、医学史を切り開いた大薬理学者なのです。

尚、彼はヨーロッパ言語を自由にこなす大学者ですが日本語はご存知ない事をいい事に、この文書は彼に何の断りも無く書きました。 大変に控えめな方ですので、もしお知りになったら私は大目玉です。 ところで彼との出会いというのは、実は以下にお書きします一週間余のドタバタが全てでした。

話は1985年の五月末のある日にさかのぼります。 大学勤めの私は医局に入室しようとしますと、 すれ違いに事務の方が回覧らしい書類を隣の研究室へ回そうとしていました。 何それ、チョット見せてと一言声かけた私の興味心がスタートです。 入室が数分遅れていたら、その書類は私の目にはとまらず、先生の元へ留学はできなかったでしょう。 とにかく回覧書類は沢山ありましたから。

それは英文によるアメリカメルク財団の奨学生募集要綱でした。 Merck Sharp and Dohme International Fellowships in Clinical Pharmacology と書かれていました。 ところで内容を一瞥し、ぱっと目にとまったのはECFMGの文字でした。 アメリカの医師国家試験に相当する資格です。 財団はこの資格者を対象に世界中から毎年若干名を米国に招聘していたのでした。 挑戦する価値があると直感しました。

問題は提出期限でした。 あと一週間です。 しかも財団に必着。 無茶です。 何故なら当時は電子メールも無く、航空便が手段だったのです。 米国との手紙のやり取りに最低一ヶ月はかかる時代でした。 実は東京に財団の事務局がありました。 私は数日の遅延なら受け付けてもらえるかとすぐに電話しました。 事務局の答えは、保証はできぬが、可能性はある、決してあきらめないで下さい、 一人でも多くの日本人に応募して欲しいと。

その言葉に本当に励まされました。 すぐに財団に手紙を書きました。 日本から締め切りに数日遅れて応募書類が届きますので何とか受理して欲しいと。 そして三日三晩、一心不乱に英文で研究計画を書きました。 当時の教授斎藤先生、名誉教授山田先生と私を直接知る恩師お二人、栗山先生、故長屋先生の計四通の英文推薦状もびっしり書きました。

万が一の英文の誤りも許されない、Shields さんという在日米国人の翻訳プロに全ての文章を直ちに添削してもらいました。 彼の自宅へ押しかけて玄関に座り込みその場で見てもらいました。 私の原文は間違いが何箇所もやはりありました。

日はどんどん過ぎる、あせります。 留学受け入れ先も自身で見つけよとの財団の書類でした。 最大の問題でした。 あれこれ調べ、手紙を書く時間の余裕がないのです。 手っ取り早い方法を選びました。 帰国した教室先輩に米国留学先の教授の電話番号を教えてもらって片っ端から国際電話をしました。 彼の後輩で山本と申します、あなたを男と見込んでお願いがあります、と電話したのです。 若気の至りです。 ところが何処も結局だめでした。

その間、山田先生、栗山先生、長屋先生の所へ車で飛んでゆき、 私が書き Shields さんが添削した推薦状に署名をもらいました。 三人の先生は皆すぐ署名をくださって一発回答でした。 最後に教授室に駆け込みました。 Shields さんお墨付き推薦状に署名が欲しいとお願いしました。 斎藤教授いわく、チョット間違いもあり、気になる点もあるから今夜直しておくけど、 イスラエルへ出張する、明日朝発つ、秘書に渡しておくからと、この間、数分の事でした。 言わばその場で署名はもらえませんでした。 一日遅れていたら教授の推薦状は幻となり、危うく留学作戦が宙に浮く所だったのです。 翌日受け取ったら何箇所も添削してあり、意味も格段と深まりました。 すぐにタイプ、秘書に署名を代筆してもらいました。

ところがここで完全にタイムアウトでした。 しかも例の留学希望先探しの国際電話の仕事は続いていましたが、 肝心の受け入れ先はまだ決まっていません。 実は受け入れ先からも財団へ定式書類が必要なのです。 絶体絶命。 しかしどうしても諦めたくありません。

そこで案がひらめきました。 いちかばちか、またよりによって、 奨学金募集要綱にあります財団の選考委員自身の所へ留学したいと書く事に決めたのです。 何から何まで若気の至りです。 しかしながらさすがに選考委員長に、貴方の所に留学したいと書くのは気が引けます。 と言う事で、それ以外の誰でもいいやと実はさいころを振りました。 それに従い、二番目の選考委員に手紙を書く事にしました。 実は何を隠そう、その選考委員こそエドワードカー先生でした。

これがまた、若気の至りそのものです。 その手紙たるや、貴方がどんなご業績の方か存じませんが有名な方なのでしょう、 私は米国でradiopharmacokinetics を研究したいと思っている無名の医師ですが、と書きました。 私の書類を読んで見込んで下さるのなら選考委員と言う立場を捨てて、 選考委員会に私を引き受けたいと書類が書けないかと真摯にお願いしました。 時間が無いので、こんなドタバタした手紙になっているとも書きました。

話はまだ続きます。 書類の提出期限がとっくに過ぎています。 えい、ままよ、受け入れ先は確定していないがニューヨーク州立大学になる可能性があると書き、書類に封印しました。 これこそ、男・山本秀平ついにルビコン河を渡るの巻、さいが投げられた瞬間です。 実は好都合な事に私は翌週、米国のSNMという学会に発表に行く予定がありました。 便をやりくりし、予定を早め、サンフランシスコに着いて、空港の郵便局にて書類は早速投函しました。 提出期限をあせる日本人がわさわざアメリカに手紙を出しにきたと、もしかしたら財団はびっくりされたのでしょうか。 それはともかく書類はついに無事に受理されました。

暫くしてエドワードカー先生から手紙がきました。 熱意を感ずる、善処しますと。 ところがここで何と運命の女神が私に微笑んでくれました。 実は上記の英語キーワードで先生と私の学問的興味はピタリと一致していたのです (参照)。 こうして私はついに土俵に登ったのです。

が、待てど暮らせど財団からは返事なし。 諦めかけ、忘れかけていた頃に先生から手紙が来ました。もう年末でした。 財団が私、フランス人、中国人、計三名をその年の奨学金受賞者に決定したと。 私の書類の審査はさすがに先生を除いて票決されたそうです。 斎藤教授室に走りました。 日本人で八人目、本学卒業者では初めて、今年は世界から三人の財団奨学金を受賞した旨を報告しました。 とにかく、今思えば以上のいずれの事象の一つが一日送れていても、また投げられたさいころの目が違っていた場合は特に、 私は先生の元に留学できませんでした。

その後ニューヨーク州立大学から、どうだ読んでみろという感じのずっしりと重い先生の業績集が届きました。 財団からもドカッと書類が来ました。 天にも昇る気分です。 青春の総決算でした。 そして彼の業績集に初めて目を通し、 そこで彼こそまさに私が日ごろ研究していた心臓核医学の祖の大学者さんだと知ってびっくりした次第です。 勿論、ご業績は、心臓核医学はその一部、あまねく医学全般に及んでいました。

References

Carr EA, Walker BJ, Bartlett J : The diagnosis of myocardial infarcts by photoscanning after administration of cesium-131. J Clin Invest 42:922, 1963

Carr EA, Carfuny EJ, Bartlett JD : Evaluation of 201Hg-chlormerodrin in the demonstration of human myocardial infarcts by scanning. Univ Mich Med Bull 29: 27, 1963

ECFMG = Educational Commission for Foreign Medical Graduates.


ページ先頭に戻る