大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

おれ(俺)・われ(我)・反射指示

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僕:今日は飛騨方言の人称代名詞のアクセントの話だ。
君:飛騨では自分の事は「おり」、相手の事は「わり」というわね。
僕:「おり」は「おれ」がちょいと訛っただけの事、「わり」は「われ」がちょいと訛っただけの事。本質的な問題ではない。
君:それに「あなた」の事を「われ」という事もあまり本質的な問題じゃないわね。「われなにしてんねん」は、つまり「おまえ何やってるんだ」の意味だし。
僕:「おれ」ですら、それが言えるね。「おれ」の語源は「おのれ」を語源とするのが定説となっているが、反射指示というやつだ。人称に関わらず、其の物自身の意を表す事。「紅葉せぬ時は野山に住む鹿はをのれ鳴きて秋を知るらむ(宇治拾遺・秋)」「人はおのれをつづましやかにし(徒然・18)」。大問題はおれ(俺)・われ(我)のアクセントなんだよ。
君:おれ(俺)は平板、われ(我)は頭高ね。
僕:「おれ」が貴方の意味であろうとなかろうと自分の意味であろうとなかろうと、一方「われ」が貴方の意味であろうとなかろうと自分の意味であろうとなかろうと、日本全国のアクセントについては、おれ(俺)は平板、われ(我)は頭高なんだよ。明治書院・現代日本語方言大辞典で該当箇所を先ほど調べた。これって凄くない?
君:別に何とも思わないけれど。
僕:いや、語源という事を考えると、これは凄い事なんだ。語源的に簡単に説明できるのが「われ」。これの語源は「あ吾」という頭高の一拍名詞。これに接尾語「れ」が付いたものだ。だから「あれ(古語)」も、「われ(私)」も、飛騨方言「わり(貴方)」も頭高アクセントになる。
君:なるほどね。でも市販の古語辞典には接尾語(辞)「れ」の記載がないわ。
僕:ははは、そこでお出ましが角川古語大辞典全五巻。
君:という話になると思ったわ。
僕:以下言文のままだが・・指示語「こ」「か」「そ」や、不定詞の造語成分「いづ」、反射指示代名詞「おの」などに付いて、そのものというほどの意を狙い「これ」「かれ」「それ」「いづれ」「おのれ」などの語を作る。
君:当り前の話じゃないの。
僕:確かに当り前の話だが、アクセント学的には全然、当り前の話ではない。
君:・・なるほど。「かれ」は頭高で良しとしても、「これ」「それ」「いづれ」「おのれ」は平板、つまりはアクセント核の消失。人称代名詞で「われ」「かれ」はアクセント核が語頭の頭高だけど、その他はアクセント核が消失。「おれ」もアクセント核が消失という事なのよね。
僕:全国の方言でアクセントが同じなので、このような代名詞は古代から使われていた事もわかる。
君:つまりは古代の日本語は単一のアクセント体系だったという事かしら。
僕:多分。金田一春彦先生の「平曲考」に詳しいが、アクセントが出来たのが平安から、東西のアクセント対立も出来た。書は平曲の名手館山甲午師から奥許しを与えられ,数少ない伝承者の一人となった著者が,平曲を後世に伝えるために『平家正節』の譜の読み方・演奏法を克明に記録するとともに,専門的な分析を行った研究書。つまりは金田一先生は琵琶の名手、つまりはなかなかのマルチタレントなお方だったんだよ。残念ながら書は絶版。
君:古代に「これ」「それ」「いづれ」「おのれ」が平板化して現代に至るという事かしら。
僕:そう考えざるを得ないだろう。
君:若しかして古代から「われ」は頭高で現代に至るという事かしら。
僕:そう考えざるを得ないだろう。
君:若しかして古代の指示代名詞は平板化が一般的で、ひとり「われ」のみが頭高で現代に至るという事かしら。
僕:そう考えざるを得ないだろう。だから君は何を言いたいんだ?
君:私が気づいた事はたった一言、つまりは「れ」がそもそも接尾語(辞)だったのかしら、という事なのよ。アクセント核のある「あ吾」に無核の「れ」が付いて、頭高「あれ吾」「われ我」の言葉が出来たというのは納得できるけど、「これ」「それ」「いづれ」「おのれ」が平板という事は、古代から「こ」「そ」「いづ」「おの」にアクセント核が無かったという事にならないかしら。不思議な事よね。
僕:言われてみればその通り。不思議だね。「こ」「そ」「いづ」「おの」がなんだか接頭語(辞)に思えてしまう。となると「れ」は寧ろ共通語根という事になるね。いやあ、参ったな。例外が多すぎる規則は規則とは言わない。そういうのはデタラメと言うんだ。
君:つまり、アクセントってデタラメね。ほほほ
僕:してやられたな。でも現に僕達は日本語というアクセントに満ち満ちた世界で平安時代から生きてきた。
君:アクセントの本質は「きまぐれ」そして「がんこ」つまり「修正不可能」。つまりはアクセントは石頭の貴方そのものよ。貴方の素敵なあだ名を思いついたわ。アクセント核よ。ほほほ

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