大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法

アスペクトの正体は「よる寄」にあり

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私:アスペクトは元々は英文法の概念だが、日本に紹介なさったのが工藤真由美先生。現代語の意味としては動詞の内容が継続、或いは完成している事の表現で、中学校で習った -ing がそれだと思えば間違いない。
君:正体が「よる寄」とは?飛騨方言に限って、という意味ね。別稿では存在の動詞「あり有」と書いたじゃない。
私:カアッと思い詰めて書きなぐる、そんな事ばかりをやってきた。後から読み直して他ならぬ自分自身が疑問に思う事もある。
君:飛騨方言の具体例からいかなきゃ駄目よ。
私:その点が重要。鳥のまさに死なんとするや、その鳴くや哀し。人のまさに死せんとするや、その言うや善し。アスペクトを考える点で「死ぬ」という動詞は好都合。「死んだ」といえばテンスの問題で、それは過去。「死につつあります」つまりは瀕死という事がアスペクト表現だが、飛騨方言では「シニョール」。これはおそらく「死による」の音韻変化。
君:つまりは「死による」は複合動詞という事ね。
私:自ナ五(自動詞ナ行五段)「死ぬ」の連用形+自ラ五(自動詞ラ行五段)「よる」終止形の構造だと思う。アスペクトの本態は自ラ五「よる」だろうね。
君:すべての動詞の連用形に下接する形でアスペクト表現になるから、という意味ね。
私:そう。例えば、五段は「書きよる」、カ上一は「着よる」、下一は「捨てよる」、カ変は「きよる」、サ変は「しよる」。
君:飛騨方言の古語はどうかしら。
私:ラ変「ありよる」がやはり意味的にナンセンスに近いかな。但し「孫がおおきょうなって、大人になりよる」はセンスにあう。あり・をり・はべり・いまそかり、「あり」で注目すべきは補助動詞ラ変「〜の状態である・〜ている」、つまりはこれがアスペクト表現の正体。つまりは「あり」そのものが単体でアスペクト表現なので、「ありよる」というアスペクトの二重表現はナンセンスという意味だ。どんなもんだい、ガハハ。
君:飛騨方言にはアスペクト表現が二つあり、ひとつは「あり」単体、ひとつは下接が「よる」の複合動詞、という事ね。
私:要はそういう事。でも待てよ。話しています、という意味で、飛騨方言では、話しょーる、などというが、古語的には、はなしをり、かも知れないね。となると、四段は「書きをり」、カ上一は「着をり」、下一は「捨てをり」、カ変は「きをり」、サ変は「しをり」で意味が通る。然も「をり」の語源は中世から近世にかけてラ行四段化が進み「あり」が母音交替したものなので、つまりは全部「あり」で説明が出来そう。或いは「をり」の語源説に「ゐる(居)」の連用形「ゐ」に「あり」がついたもの、つまりは「ゐあり」という説もある。つまりは日本語のアスペクトは、やはり「あり」で説明がつきそう。飛騨方言では、寄りつつあります、という意味で、寄りょうる、とも言うぜ。こりゃアンチテーゼだな。ぶっ
君:今夜も飛騨方言を楽しみつつも(=aspect)、頭がカッカとしているわね(=aspect)。
私:飛騨方言では、左七の頭がチンチンしようる、と言うんだよ。「ある有」なのか「よる寄」なのか、謎が謎を生む。
君:簡単に言えば、どうでもいい事。
私:アスペクト的には、左七をからかいよる君。
君:それを言うなら、からかっとる。つまり、からかっておる。何の事は無いわね、つまりは、からかひてをり。あり・をり・よる、アスペクト三兄弟よ。ほほほ

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