大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 表記

現代仮名遣い

戻る

言い訳になりますが私は国語の専門家ではないので古文の知識といっても大学受験止まりですし、文学が好きといっても教養部の二年間で新潮文庫をおよそ数百冊、乱読しただけの事です。このサイトを2005−8まで運営し、昨年2019に再開して、再び方言学の書籍を中心にせっせと本を買い漁っています。昨日に書店で目に留まったのが三省堂・新旧かなづかい辞典(ISBN978-4-385-13985-2)、ペラペラとめくった一分後には無意識にレジに並んでいました。帯をそのままご紹介しますと
俳句・短歌・小説の創作に必携!日常使っている言葉から歴史的仮名遣いがわかる辞典。現代語や季語、歌枕、俳枕に使われる地名等役24000項目収録。付録に「歴史的仮名使い概説」「字音一覧」内閣告示「現代仮名遣い」など。

「現代かなづかい」(昭和21年公布)以来、現代を生きる人の多くが「新かな」での教育を受けています。一方、俳句などの創作の世界では、歴史的仮名遣い(旧かな)は生きた表現として使われています。この辞典は、日常普通に使われている語が、その言葉の歴史的仮名遣いが調べられます。
という事です。

手短に、仮名の表記の混乱を最初に整理したのが藤原定家「定家仮名遣い」、江戸時代に僧契沖が「歴史的仮名遣い」の礎を確立、これが明治から敗戦まで使用され、昭和21年11月内閣辞令で「現代かなづかい」が公布され日本語表記が一変、その後、昭和61年七月に再び内閣告示で「現代仮名遣い」が公布され現在に至っています。

歴史的仮名遣いについては以下の動画があったり、またネットにはその手の高校受験の教材があったり、えっ、知らない間に日本の国語教育ってこんな風になっていたのか、と新鮮な感動を覚えました。


1953年生まれの私自身、初等教育(1960-5年度)でも、中等教育(1966-8,1969-71年度)でもこのような教育を受けた覚えが一切、無いのです。受験は名古屋大学でしたが、現国は必須として、古文・漢文は実はゲームでした。受験当日に両方の問題文を見て一択するのです。二択のどちらで満点をだせそうか瞬時に判断し、決断せねばなりません。人生がかかっている世紀の瞬間です。この日の一択のために古文も漢文も三年間、みっちりと受験対策をしないと旧帝医学部入試の勝利はおぼつかないのです。

実は以上が前置きです。本日の話題としては、昭和61年七月告示の現代仮名遣いについてです。前書きの第五に、
この仮名遣いは。擬声・擬態的描写や嘆声、特殊な方言音、外来語・外来音などの書き表し方を対象とするものではない。
と書かれていますので、方言会話文が入った文学、ラインスタンプ、等、方言の表記は一応はどんな書き方でも可能、という拡大解釈が可能でしょう。それでも「特殊な方言音」との記載ですから、「会話」ではなく「音」に限って自由な書き方を認める、という事でしょうか。しかしながら「会話」文であれば、方言と言えども現代文であるとの立場からは流石に現代仮名遣いに準じて記載するのが無難でしょうね。

例えば「おおきくなる」という話し言葉の文章ですが、飛騨方言ではウ音便が普通です。従って私ならばさしずめ「おおきょうなる」と書きますが、方言だから自由な書き方でよいという発想で「おーきょーなる」と書くのはいかがなものか、と私は考えてしまいます。

これが歴史仮名遣いとなると「おほきやうなる」「おほけうなる」「おほけふなる」果たしてどのように表記すべきでしょうか。大阪を舞台にした戦前の文学を読み漁らないと良い答えが出てこないような気がしますね。
ps 昭和61年七月に内閣告示された「現代仮名遣い」、私事ながら大変にあわただしい同月でした。月末に渡米したのです。短い時間に留学先に二十個ばかりの小包を送りました。夫婦と娘の衣類その他、生活に必要なもの諸々です。当時、書きかけの論文が三つありました。原稿、および資料を数百枚のフロッピーディスクに格納し機内の手荷物としました。スーツケース四個にパソコン二台(NEC PC-9801F)とプリンター二台を分解して収納しました。CRTも二台ですが、これはブラウン管につき分解不可能、航空会社に予めお願いして機内荷物として扱っていただきました。

さて二年後に帰国するのですが、やはり米国での業績の書きかけ論文と資料を数百枚のフロッピーディスクに入れて持ち帰りました。行きも帰りも同じ苦行の太平洋の空の旅です。その帰りのJAL機内で久しぶりに読む日本語雑誌、セイコーエプソンが白液晶のノートパソコンを新発売するとのニュースに驚嘆しました。いよいよ世界中で人々が気軽にPCを持ち歩く時代が来るのか、と感慨深いニュースでした。本家アメリカの大学ではアップルのマッキントッシュのバックパッキングがトレンドだった時代です。セイコーエプソンが世界初のノートパソコンを作ったのです。名大病院の古巣に戻った私ですが、帰国後、翌週には秋葉原へ買いに行き、家電店様認定の日本人ノートパソコン派第一号になりました。

ページ先頭に戻る