飛騨方言・いしな、は小石、石ころを指し、子供が持ち抱えられないような石、あるいは
もっと大きな石、巌を意味しません。
石の大きいものを岩といいますが、岩な、という飛騨方言はありません。また、飛騨方言では、
つけもの石、といっても、つけもの石な、といは言いません。
いしな、に特別に意味はないというのが結論かもしれませんが、若干の考察を試みます。
筆者はこの語の語源は石投げ、であろうと推察します。
勿論、根拠はすかさず開いた古語辞典ですが、
いしなご(名詞、石投げ、女子の遊戯の一種、お手玉)によります。
この言葉が更に変化して石な取り(名詞、いしなごに同じ、石なごを取る遊び)
ともいうようになったのです(宇治拾遺、雑賀、詞)。
賢明な筆者はおわかりですね、古くは宇治拾遺に名詞・いしな、が記載されており、
その意味も飛騨方言・いしな、にピタリと一致します。
著者が石投げが語源と直感するもうひとつの理由はその用法です。
"やくといしなをほかる(=わざと小石を投げる)"という飛騨方言の言い回しがあります。
つまりは、目的語・いしな、とはお手玉程度の大きさの石を示し、他動詞・投げる、と
密接に関係する言葉なのです。
この文例は著者の原体験と一致します。
つまり"石な"は悪童の喧嘩では路傍にころがっていて真っ先に用いる武器です。
がしかし悪童なりに喧嘩道というものがあり、決して相手に当ててはいけません。
如何に相手スレスレの所、つまりはストライクゾーンへ投げて相手に恐怖心を与える事が出来るか、
という事を悪童は皆心得ています。
そして若し万が一にも本当に相手に当ててしまったのなら、
投手失格の彼は親からは叱られ、死球を受けた相手のご自宅へ親と共に謝りにいかねばならぬのは勿論、
結局は喧嘩道を知らぬ奴という事で子供の世界で村八分になる運命が
待ち構えているのです。
別の語源の可能性となると途端にしぼんでしまうのですが、
一応ご参考程度に。
まずは、な、の部分が接尾語であることは明らかです。
古語辞典によれば、接尾語・な、は上代東国方言で人を呼ぶ語に付いて親愛の情を表わす、と記載されています。
子な、は最愛の子供です。せな(兄な)は、愛すべき兄貴です。
(アイルトン・セナ(カーレーサー)の兄貴、何故、死んでしまったのですか。一説には、彼は、車体重量を一グラムでも
軽くするあまり、ヘルメットも最軽量のものを用い、これが致命傷であったそうです。)
いも(妹)なろ、これは我が最愛の妻、という意味です。
がしかし、いくらなんでも、飛騨はどちらかというと関西というよりは東国に近いとはいえ、石に親愛の情をこめて、
いしなと呼んできたと考えるのは無理でしょう。
話変わって、なで終了する名詞ですぐ思い浮かぶのが、とうな、ですが、飛騨方言でトウモロコシの事です。
がしかし、石なとはなんら関係ありません。とうな、の語源は実は唐あわ(粟)です。
末語・な、の飛騨方言はまだあります。
例えば失う、という動詞は、飛騨方言ではうしなかす、です。
語幹は"うしな"、、がしかし石なとは何ら関係ないでしょうね。
寝る際、のことをねしな、といいます。帰りがけは帰りしな、といいます。
ただし、しない、というのは、飛騨方言では、せん、です。
全て"石な"とは関係ないでしょうね。
もうよしな、という事で、しゃみしゃっきり。
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