大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

裏の裏を読む書評・飛騨金森史

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方言なんてのは、現代では結局は死語。 つまり生き生きと方言が語られていた時代の古本を漁らなくっちゃあ、 と言う事で私・佐七は古本探し、と言ってもネット検索ですが、 飛騨金森史、を先日ゲットしました。

さて、その古本ですが、 金森長近というのは織田信長の一番の家来で、徳川時代に飛騨を治めた 武将なのですが、高山市に、高山市制五十周年/金森公領国四百年記念行事 推進協議会、というものが発足して昭和六十一年に初版が出たのです。 延々と四ページにわたる文献紹介が巻末にある力作ですが、 当時の編集者の方々、高山市の名士ばかり、が金森いのちと言う事で舞い上がってしまわれたのですね。

ただし筆者はいやしい農民の出ですからこの書を冷静に読ませていただきました。 本音を申しましょう、彼は所詮は殺し屋です。 ですから、信長と共に農民、真宗信徒に弾圧の限りを尽くした金森長近は私は 到底好きになれません。

それはさておき、同書の一節、金森長近の前任地・福井県大野市方言と飛騨方言の 対比検討、については佐七は思わずふさぎ込んでしまいました。 つまりは同書は、王子保村誌刊行会による福井県王子保村史(武生市)と 福井県今立郡今立町史(今立町)の二つの資料から飛騨方言との共通方言を 抜書きしたものなのです。前者からはおよそ百二十、後者からは約三十の方言が 飛騨方言と一致する、として飛騨金森史には紹介されていました。 それは良しとして、読み捨てならない一節は、
長近とその家臣が総勢何百人が越前から高山に移り住んだのであるから、 長近を媒体にして共通点がないか、言語について探ってみた
というくだりです。有体には、国替えによる言語島が飛騨高山市に成立したのか、 という命題ですが、答えは勿論、いいえ、ですね。

私の手元には別資料、岩波講座日本語巻十一方言、がありますが、 これも実は昨日ゲットしたぞ、同書によりますと、古い資料としては 明治四十一年に時の政府が音韻四十一項目、口語法九十条を基に全国を調査した のです。これを基に学習院大教授・東條操が大日本方言地図を公けにしたのが 昭和二年ですが、飛騨は東海東山方言のひとつ、福井方言は北陸方言、として 明瞭に区分されたのでした。その後も諸学者の研究・発表は続きますが、 飛騨と北陸・福井との方言区分は動かし難かったようです。 とどめを刺したのが金田一春彦博士です。 北陸は近畿のアクセント圏であり、飛騨は東京のアクセント圏であり、 つまりは両者は異質の言語である事きわまれり。なあんだ。

上記の金森いのちの記念行事推進協議会様が 福井方言に関する少ない資料を一瞥されて、 舞い上がってしまわれた事が容易に推察されます。 がしかし悲しいかな、間違いでしょう。 筆者のなけなしの知識から鑑みても 同書に紹介されている福井方言との飛騨方言の共通語彙は 実は、古来の和語、あるは江戸時代以後の言葉、室町時代の女房言葉等々、 むしろ関係ない言葉のオンパレードてあり、金森長近とは全く関係が ありません。

ですから、同記念行事推進協議会様へ、 国語学を何も知らない読者に思わせぶりの記載は絶対にやめてくださいな。 同書は表題通りに歴史書に留めるべきだったのです。 でも、言い換えれば同書の方言の章以外は思わず、ほう・そうかあ、と ため息をついて徹夜で読んでしまった私。 いやあ、全体的には力作でしたよ。私の大切な財産になりました。しゃみしゃっきり。

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