表題は光文社新書のご紹介で、
著者は佐藤寛・鉄舟禅会理事です。
山岡鉄舟は郷土が生んだ偉人ですが、
知らない方が多いでしょうね。
しかし今も全国には熱烈鉄舟ファンがいらっしゃるのです。
さて、幼名・小野鉄太郎ですが生まれは江戸、
父親・高富が飛州郡代に任命されて、
十歳から十七歳までを飛騨高山で生活したのでした。
実は光文社新書には一切、飛騨方言の記述はありませんが、
鉄舟が飛騨でどのような教育を受けたかという点が
細かに記載されています。
筆者が同書をご紹介せねばならない理由です。
お代官様・高富のご長男ですから、大事に育てられ、
また周囲もあれこれ遠慮する事はあったのでしょう。
然し母親・磯の、人を身分で区別する
人間にならぬように、と言う教育方針により、
実は寺子屋へ通った鉄太郎でした。
天領飛騨には城下がなく、従って代々の家臣団もなく、
藩校もありません。
武士といえば代官所・陣屋および飛騨各地にある番所に勤める
お役人のみ、極めてわずかの人口です。
また天領の役人は飛騨にはなんの縁もゆかりも無い出張族です。
代々、高山に住むわけではありません。
いわんや家族とて。
実は飛騨にあった教育機関は百姓町人の学校・寺子屋のみ。
花のお江戸からの転校生・鉄太郎も
百姓町人の子供に交わって勉強したのでした。
以上の事実からもはや明らかでしょう、江戸時代の飛騨高山には
江戸言葉の言語島は存在しなかったのでしょうね。
勿論、武士は武士の言葉を用い、庶民は決して
武士の言葉ほ話しません。
ただし、武士の子であれ子供はすぐに土地の言葉を覚えます。
つまり鉄太郎は飛騨方言を学んだバイリンガルだったのでしょう。
そしてそれを生涯、忘れなかったはずです。
若し佐七が鉄太郎であったのなら決して忘れません。
さて十七歳の時に飛騨を離れねばならぬ突然の悲劇
が鉄太郎を襲います。父母が相次いで病没、
末弟は乳飲み子であった弟達の面倒を見つつ、
江戸の親戚に身を寄せたのが彼の人生のスタート
なのでした。後は、本を読んでのお楽しみ。
つまりは江戸時代の江戸方言と飛騨方言の接点はただ一点、
陣屋においてのみ、
と考えることは筆者が如く単細胞の脳みそには痛快そのものです。
陣屋を通じて出て行った言葉の代表が、でかい。
入ってきた言葉の代表が、てきない、でしょう。
共に形容詞である、とそこまで考えるのは考えすぎでしょうか。
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