大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
「てまう」表現に関する一考察 |
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私:共通語で「〜してしまう」というところを「〜してまう」と表現するのが近世の上方方言で飛騨でも用いる。共通語を品詞分解すればサ変「す」連用形+接続助詞「て」+「しまふ仕舞」他ハ四(他動詞ハ行四段)になるし、「しまふ」は更にサ変「す」連用形+「まふ舞」自ハ四(自動詞ハ行四段)に分解できる。つまりはサ変「す」が重複している。ただし、このような揚げ足取り的な議論はやめて、広く文末詞の点から「てまう」表現について考えてみたい。 君:いきなり難しすぎる話はよくないわよ。要は、何が言いたい訳? 私:じゃあ質問しよう。品詞分解した結果から明らかだが、キーとなる動詞はたったひとつだね。 君:そういう質問ならば。「まふ舞」自ハ四が全体の意味の根幹なのよ。先行するすべての品詞は「まふ舞」のお飾りだわ。 私:その通り。先行する品詞は省略すら可能という事だ。つまりは「〜してしまう」ではサ変「す」が重複しているくらいだから「〜してまう」と、サ変を一個にしたほうが寧ろ理に適っている。単モーラの脱落、という発想で片づけられる問題ではない。否、むしろ中世あたりに「てまう」方言が先に存在して、然る後に「てしまう」と言うように「し」が挿入された可能性は無いだろうか。 君:「しまふ仕舞」の古語辞典の出典はどうかしら。 私:中世から近世。狂言等にある。日葡にも記載がある。Ximai, mo, ota 仕舞ひ、ふ、うた。 君:「まふ舞」は古いわよね。 私:古いなんてもんじゃない。古事記712。類義語に「をどる踊」他ラ四があるが、こちらは万葉から。「まふ」が優雅な水平移動であるのに対して、「をどる」は基本的にはジャンプする事。「しまふ」が中世の言葉である事から、中世に接続助詞「て」+「しまふ」の文例が現れる前に上代あたりに接続助詞「て」+「まふ」が使われていたとしても、荒唐無稽なストーリーではないと思う。 君:確かにね。アマチュアの立場は気楽よね。論述するためには文例が必要だわ。文例が全てよ。 私:実は・・・以上が前置き。今日、お話ししたい事は、そんな事じゃないんだ。 君:えっ、以上は前置き、実は本題じゃなかったのですって。じゃあ、言いたい事を手短にお願いね。まず、結論を言ってちょうだい。 私:そうだね。「てまう」表現って、現代ではどちらかというと悪い意味で用いられる事が多いでしょ。例えば、失敗した事を「やってまった」とかいう。でも元来は「てまう」方言は良い意味で用いられていたのかな、というのが本稿の結論だ。 君:確かにね。やくざ映画で「ああ、とうとう、やっちまった」などという台詞があればろくな意味じゃないわね。 私:「てまう」「てしまう」表現が悪い意味の表現として使われるようになったのにはたったひとつの原因があると思う。 君:言葉の値打ちが歴史の流れで下がる事、良い意味が次第に悪い意味になるからかしら。 私:広く考えるとそれが正解になろうが、江戸時代に「人をやっつける、始末する、殺す」という意味と「破産して身代を無くす」という意味が新たに生まれてしまった事。この二つの意味は現代に引き継がれ、そもそもの意味「きちんと、優雅にお片付けをする」の意味がすっかり薄らいでしまった。たとえ「てまう」方言が上代から存在しようがしまいが、近世あたりから京・難波の「てまう」と江戸の「てしまう」の東西対立という言語意識が日本人に芽生えると、「てまう」も「てしまう」という江戸言葉の意味に引きづられるようになり、失敗した事を「やってまった」と言うようになったのではないだろうか。中世においては「てまう」は「浮き浮きと優雅な行いをする」という専ら良い意味の語法だった可能性がある。 君:ほほほ、「まふ舞」自ハ四は元来は良い意味だったのに、という気持ちで更にお調べなさったのでしょ。 私:ははは、その通り。ふたつの言葉を見つけたよ。「みまふ見舞」「ふるまふ振舞」。「みまふ」は私の職業・医師が患家に往診する時の仕種から出た言葉。私は必ず患者様の肩に手を当てて「大丈夫ですよ」というのが口癖。患者様のお手々は必ず握らせていただく事にしている。そして「ふるまふ振舞」だが、「身の振りにて」+「まふ」という意味だ。つまりは「それらしく、うやうやしくもてなす」というような意味。 君:ほほほ、「無礼な振る舞い」などという言葉は誤用もいいところだわね。 私:「お見舞い」だけは現代においても言葉の価値が下がっていない。日本人の心の琴線に触れてしまった気分だ。でも「てまう」方言もまんざらではないよ。いい意味で使用する事は十分に可能だ。 あれ、こーわいさぁ。おりゃA子ちゃんを好きになってまったんや。 君:あーあ、言っちまったのね。言わぬが花なのに。嫌われてまうだけやお。ほほほ |
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