ネット情報によりますと、この飛騨春慶という地域ブランドの推進団体は
"飛騨春慶連合協同組合"様、
〒506-0057
岐阜県高山市匠ヶ丘町1-51(有)東春慶漆器店内
TEL:0577-34-2716、FAX:0577-34-2853 のようです。
また飛騨春慶会館がありますが当サイトが公式ページというわけでもなさそうで、
この辺が私のような部外者にはわかりづらいところです。
さて少し書きにくい事なのですが、そこを敢えて。
若しや関係筋様に失礼があればただちに記事を書き直させていただきます。
という事で、飛騨春慶会館HPの記事を読みますとあたかも春慶塗りが
飛騨のオリジナル工芸であるかのように考えてしまいますが
事実ではないと思います。と申しますのも
"サイト"名・茶道用語様の春慶塗り記事を原文のまま紹介させていただきます。
漆塗りの一種。
木地を黄または赤に着色し、透漆を上塗りして木目が見えるように仕上げたもの。
起源ははっきりしないが、後亀山天皇(1347〜1424)のとき和泉国堺の
漆工春慶が考案したと伝えられこれを堺春慶というとされ、
一説では道元禅師(1200〜1253)が中国からつれてきた工人僧の春慶が
越前の永平寺にいて創始したともいう。
俗に日本三春慶と呼ばれ、岐阜の飛騨春慶、秋田の能代春慶、粟野春慶(水戸春慶)が知られる。
「粟野春慶」は、室町時代の延徳元年(1489)に稲川山城主・源義明が
粟野(現在の城里町)で始めたといわれ、別名「水戸春慶」と
呼ばれるように徳川光圀公も御用塗物師を召し抱えて奨励した。
「飛騨春慶」は、慶長11年(1606)高山城主・金森可重の
御用大工高橋喜左ェ門が打ち割った木の木目が美しかったので
蛤盆にしたものを塗師・成田三右ェ門が木地を隠してしまわない
透き漆を工夫して塗り上げ献上したところ、
加藤四郎左衛門景正の作とされる名器「飛春慶」の茶壺の黄釉に似ていることから
「春慶」と命名したといわれる。
命名者は領主金森可重とも子の金森宗和ともいわれる。
慶長17(1612)金森可重が、批目面桶・片口・塗木地二組および
雉子一掛を将軍秀忠に献上、以後将軍献上は例年のこととなり
湯桶・片口・麪桶の三種が献上されたという。
「能代春慶」は、霊元天皇(1663〜1686)のころ
飛騨高山の漆工 山打三九郎が、秋田県能代へ移って春慶塗をはじめたとされる。
他に伊勢春慶、等々のネット情報が得られます。従いまして、
春慶塗りという言葉そのものは共通語と考えざるを得ません。
蛇足ながら関東に春慶寺(しゅんけいじ)という名刹があり、
飛騨春慶とピタリ同じ歴史があると一言、書き添えておきましょう。
・・つまりは若しや単に同時代を反映したことば・春慶、
またつまり春慶塗の新参者・飛騨春慶、嗚呼。
( 失礼、下種・佐七の勘ぐりでした。 )
それゆえに、飛騨〜、とわざわざ飛騨という二文字を入れてブランド名
にされたのは大変に慎重な、賢明な選択であると考えます。
高級漆器ですから、元祖春慶、などという安っぽい名前は事実にも反し、命取りになりましょう。
つまりは"飛騨春慶"の四漢字ともに画数が多いのはかえってプラスのイメージになります。
また読みも、ひだしゅんけい、以外には有り得ず、ブランドマントラとしては
十分合格でしょう。子音はHDSKで男性的な感じ、シャープな感じ、繊細な感じ、
という事でまさにこの工芸品のイメージにぴったりの響きを持っています。
ただし生粋の飛騨生まれ、飛騨育ちの佐七は一言いいたい。
"飛騨春慶、って書いてあるのは 春慶塗 のことなんやさ、全国の皆様。"
つまりは全国的には春慶塗は共通語、という事になりますが
飛騨において飛騨の人々が使用する限り、これは実は固有名詞なんやさ、
( 或いは若しや飛騨人の多くは実は、元祖春慶、がいいと思っている )
また前述の春慶寺の門前で江戸っ子が何を売ろうと、
そしてそれが例え春慶塗であっても飛騨春慶でなきゃあ、、、
そんなあ春慶塗じゃあねえってことよ、
ってのが飛騨っ子の心意気よ、
という事でしゃみしゃっきり。
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