大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 飛騨方言文法

飛騨方言バイリンガル

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今、方言が少しブームになっていて、 方言を話せる事が大げさな言い方ですが、 ステータスになっているようですね。 ただ単に共通語、標準語のメールでは並のメール。 ですから、友達から、いやだわその言い方面白い、 と言わせる事が若者の誇りという可笑しな時代に なっているようです。

筆者自身も私信のメールにさりげなく、でもないかな、 explicid に飛騨方言を挿入する事があります。 ただし、今のところは郷土の方々にのみ。 つまりは語の意味については説明不要ですから。 いわば秘密結社のなかの隠語のような使い方に 留まっています。

ところで昭和二十八年生まれの筆者自身が共通語を初めて話したのはいつだったのでしょう。 おそらくは小学校の入学式でしょうね。 担任の先生が、
"では、先生がいまから皆さんのお名前を呼びますから、 呼ばれたら元気な声で、はい、とお返事するのよ。 ・・大西佐七くん。"
と言われて、はい、と言ったような覚えが、、、実は全く無し。 これでバレバレですが、筆者は幼稚園に行っていません。 最終学歴は大学ですが、学歴のスタートは大西小学校というわけ。 もう一点ですが、小学校入学前に大西村から出た事、 これも実は全く無し。 勿論、その当時に大西村には余所者、 つまりは飛騨方言を話さない方はおひとりもいらっしゃいませんでした。

さて佐七ですが、実は筆者の両親は同じ大西村のなかでの縁、つまりは当時、同じ村の中、 歩いてすぐそこにお袋の実家もあったのです。 つまりは総勢六人の大人、つまりは両親及び四人の祖父母達、がよってたかって私に飛騨方言の シャワー攻撃をし続け、佐七を
村一番の飛騨方言ぼうや
にしてしまったのでした。

ですから私の母語は飛騨方言です。日本語ではありません。 ところが実は、日本語の文法は飛騨方言の文法とほぼ同じでした。 異なっている部分はわずかでした。 母語飛騨方言を元に小学校から教わったのが 日本語、というわけで日本語の習得はそれでも容易でした。

その前にマスコミの影響があるだろうって。 おっとどっこい。 筆者の家にテレビなるものがやってきたのが小学四年生の時でした。 それまではラジオで連続番組の、赤胴鈴の助、一丁目一番地、 等あるいはラジオニュースを聞いていた程度が唯一の日本語との接触機会です。 唯一の東京語の学習機会です。つまりはままごと遊び。

ところで今、辞書を片っ端から調べましたが、実はバイリンガルの 日本語訳がないのですね。たあけらしいっていうか、弱った日本語やえな。 このような場合、佐七が想像に任せて和製語を作ってはいけませんね。 ネットに幾つもある変換辞書、つまりは英語から中国語への変換 サービスを利用する事です。 答えですが、中国語では雙語、うーむ、うなってしまいますね。 やはり日本人が英語を漢字表記したい場合には 中国語に学ばなければいけません。 これで佐七は、飛騨方言と日本語、二つの言語、を話す人間、 つまりは雙語人、という事がわかりました。

ついでですから、飛騨方言しか話せない方々、 早い話が佐七の両親の事を何というのでしょう。 これも英語から中国語への変換サービスを 利用しましょう、單語、でした。単語、という 漢字に良く似ていますので老眼はつい見間違えそうです。 因みに、英語で入力した言葉を教えろですか。 ワンリンガルかいですって、ご冗談を。 モノリンガル、それもアウトですよ。 筆者が考えたのは uni-lingual 、これ以外にはありません。 またついでですが、多国語の話者というのは、 poly-lingual というのでしょうか。 お暇な方はどうぞ。

今、興味を持って日本の方言学者の生い立ちを調べて いますが、皆様が例外なく、ど田舎や下町の出でいらっしゃいます。 当たり前の事ですね。 方言学の元祖・柳田國男にして然り。 これらの方々は皆様が絶対に私と話の合う雙語人間である、と佐七は信じたい。

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