考えてみれば当たり前のことなのですが、昨日、近所の知り合いから聞いた事でふと思った事がありました。それは一番最後に。
さて先祖代々がその土地に住み、またご自身が生まれも育ちもその土地ならば、その土地の方言は果たして誰から教わったのか、などと考えるまでも無い事でしょう。答えはひとつ、皆が教えたのです。
問題は、例えば違った方言の地域からお嫁さんが嫁いで、彼女に子供が生まれる場合です。彼女は自分の知る方言で子供に常に接するものの、彼女以外の方々はその土地の方言を子供に浴びせ続けます。こうなりますと生みの親であり育ての親たる母親とて多勢に無勢です。子供は母親の方言を無視し、地域の方言を話します。子供の言語形成に地域以外の言語は所詮、勝ち目はないのです。
ところで私の竹馬の友に生まれも育ちも私と同じく大西村の"まさしろう"がいますが、彼の母親は村でただひとりかなり強烈な富山方言を話される方でした。彼女は私はじめ誰彼に対しても富山方言を話されるくらいですから息子に対して富山方言を使われないわけがありません。がしかし、まさしろうは富山方言を全く話しません。極論としては彼の言語形成は母親ではなく大西村が行ったのです。母親からは日本語文法を学び、大西村からは飛騨方言辞書を学んだともいえましょう。
また私の米国の友人に夫婦とも日本語を話す日本人なれど、子供が全てアメリカ育ちの方があります。ご夫婦では勿論、日本語が公用語です。つまり米国で子供を日本語でお育てになったのです。がしかしお子さんがたは日本語は少し苦手で、親に対してもついつい英語を話してしまうという状況です。ですから勿論お子さん同士の会話は全て英語です。ご家庭では両親のみ日本語が公用語であっても、子供にとっては英語が公用語で、日本語は外国語という訳です。地域が教える言語形成といわずして何というでしょう。
更には私の米国の友人に弁護士がいます。移民の方々の多くの訴訟を手がけており、その話を聞かされます。訴訟でよくあるパターンですが訴訟の当事者である移民の両親は英語が話せない、そして裁判官は移民の両親の言葉が理解できない、そこでやむなく登場するのが移民の両親の子供です。両国語に通ずるので通訳を買って出るわけです。まさに地域が教える英語形成ですが、子供の頭には乾いた砂地に水が染み込むように英語が吸収されますが、悲しいかな大人はその真似が出来ないというわけです。また、子供を通訳として裁判所に引っ張り出すというのは言わばやむを得ぬ、然るべき手続きを経た緊急避難処置です。いつもやるわけではありません。
さてやっと冒頭の句に戻ってですが、私のご近所の知り合いの婦人から聞きました。オーストラリアに留学しているその方の娘さんが中国人と知り合い近々、ご結婚なさるのだと。娘さんと中国人の方は何とか英語で話が通じるそうですが、お二人とも実は相手の母国語がわからないのだとか。あれまあ。( 目は口ほどにものを言い。)
でも心配ありません、私には結論がわかります。生まれる子供は両親が生涯に渡って練習してもおそらくマスターできない流暢なオーストラリア英語が話せるようになるでしょう。また若し日本に家族が住めば子供というのは日本語をキチンと話すようになりますし、あるいはせっかく話していた英語をころっと忘れちゃいますね、間違いありません。 |