大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

おぼわる母語と覚えられない第二言語

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おぼわる、という動詞がありますが、 広く東海東山方言の語彙です。 東海東山方言とは東海道と東山道の方言ですが、 狭義では愛知県・岐阜県共通の方言という事でしょう。 飛騨方言も含まれます。 高山は裏日本ですが、言葉は東海方言といっても あながち間違いとはいえません。

さて、おぼわる、は不肖・佐七辞書に記載の通りですが、 苦労して努力して何とか覚える、という意味ではなく、 なんとなく自然に覚えられちゃう、という意味です。 ですから表題の前半ですが、誰でも母語は簡単に覚えられるものだ、 という意味です。方言学用語では、潜在可能、という事でしょうか、ふふふ。 そして表題の後半の意味は書かずもがな、 (でも敢えて)中学高校と六年間も英語を勉強しても、 いざアメリカに住むとなったらアメリカの幼稚園児の英語に劣りです。 生涯に渡って勉強しなきゃ英語なんか身に付かないぜ。 つまりは方言学用語・能力可能の勧め、(i.e.)、福沢諭吉・学問の勧め。

ところで、自分達が一生懸命教えたから子供が やっと日本語を覚えてくれた、 などと感慨に耽るご両親はいらっしゃませんね。 そりゃそうでしょ、ましてや自分達の赤ちゃんだから可愛いのは当たり前、 話しかけるのも当たり前です。 そうやって二、三年の親子関係があると 赤ん坊はあっという間に母語を覚えてしまう。 母語というものは、共通語・覚えられる、と言う事ではなくて、 東海東山方言・おぼわる、という事に他なりません。

ですから母語を覚えると言う事は人間の本能そのもの、 知性でもなんでもありません。 但し、ヒトはたったひとつの母語は本能的に獲得できるのですが それ以後の第二言語は知性がなくては覚えられません。

(再掲ですが)ところで昭和二十八年生まれの筆者自身が共通語を初めて話したのはいつだったのでしょう。 おそらくは小学校の入学式でしょうね。 担任の先生が、
"では、先生がいまから皆さんのお名前を呼びますから、 呼ばれたら元気な声で、はい、とお返事するのよ。 ・・大西佐七くん。"
と言われて、はい、と言ったような覚えが、、、実は全く無し。 これでバレバレですが、筆者は幼稚園に行っていません。 母語だけで生まれ育った佐七だったのですが、 戦後の大西村に幼稚園は無し、いきなり小学校教育 というのが筆者の第二言語・日本語共通語との お付き合いの始まりです。 それでも、ハイ、という言葉は飛騨方言と共通語に 共通の語彙である事を私は入学式の日に瞬時に理解したのでしょうねえ。

結論ですが、第二言語の修得は努力するっきゃない、 努力をすれば必ずむくわれる、がしかし母語ですねえ、 これだけは自然体がいいのではないでしょうか。 くどいようですが敢えて、母語の獲得はヒトの本能です。 断じて知性ではありません。
参考 中公新書・酒井邦嘉著・ 言語の脳科学 脳はどのようにことばを生みだすか

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