先日の中日新聞の夕刊のコラムに、人になる事は簡単でも人となる事は難しい、との記事がありました。
"本ページ内に掲載の記事・写真などの一切の無断転載を禁じます"との恐い文章のおまけ付きです。
飛騨方言では、育つ・育てる、という意味で、しとなる・しとねる、というのですが、
しとなる、の語源は、ひととなる、です。
なるほどコラムに書かれた通りでしょうかねえ。
つまりは、努力して立派な人間となる事は難しいが、人はついぼうっと生きて知らぬ間に大人になってしまうものだ、
という孔子様の教えを佐七は否定しません。
私が問題としたいのは、そもそも格助詞・と、格助詞・の、の二者に
そのような意味の差、使い分けが果たしてあるのかしら、という事です。
例えば、あとは野となれ山となれ、という文章ですが、
ええい面倒だどうでもいいや・なるようにしかならないのだもの、という意味ですよね。
例えば、新入社員でも努力すればいずれは社長となる、と言うでしょうか。
否、むしろ、努力して社長になった、と言うのではないでしょうか。
逆の例えは、あれまあ小学校の時にガキたれだった佐八がいまや社長となって人を使っているとは、とも言いましょう。
古文の文例を辞書から引いて見ましょう。
野とならば鶉(ウヅラ)となりて、伊勢・123、ですが、
草深い野原となったのならば私はうずらになって鳴いていよう、という意味です。
格助詞・と、とは変化した結果を示す、とあります。
大家オオイエほろびて小家コイエとなる、方丈記、の
文例は変化の帰着点を示す格助詞、との注釈がありました。
さて格助詞・に、ですが、東京に行く、東京へ行く、
の二つの文章にどれだけの意味の違いがあるでしょうか。
東京にいく、とは首都東京というただ一点の目標地点めがけて進む、
という意味でしょう。より具体的には、東京駅に降り立つ、と同意です。
一方、東京へ行く、とは東京の方向へむかう、という事です。
東京界隈といってもいいでしょう。
文例は、"大阪を発ち、東京か横浜へいくつもりが、結局は名古屋の彼女の家にいった。"
ですから、人になる、という言い方こそ、努力して立派な人間(=目標点)になる、という意味であり、
人となる、の言い回しは実は、子供が年を経ると必然的に大人に変化する、
という意味が隠されているようです。
徒然草に、白頭の人となりしためし(*)なきにあらず。(*)ためし=例、世の常。
意味は、佐七も年をとれば必ず白髪の老人となってしまうものだ、
わしゃもうだしかんわい。
よくよくお調べになってから書いてくださいな、中日新聞殿。
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