大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

学校教育・私が飛騨方言を話さない理由

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恩師のなかには国語の担任もおられますので少々書きづらい事なのですが、小生は一度も、方言の大切さ、郷土の言葉を愛する事の尊さについて授業で教えを聞いた事がありません。義務教育では作文が重要な課題ですが、小生は方言を括弧文、つまり話し言葉の引用以外には決して書いてはいません。

授業では素文を先生が添削して、それを生徒全員にお披露目する、という事もありますが、方言部分を添削し、正しい日本語とするお定まりの口上です。つまりは方言の言い回し、表記を考えても評価はされず、むしろ正されるのがおち。ドーテの最後の授業も教材に上ったのを覚えてはいますし、確か小学校の道徳の時間のテーマで話されたような覚えもありますね。ところが、アメル先生の言葉を言い換えて、正しいきちんとした日本語を覚えなさい、と結ばれるわけですので最後の方言授業では決してありません。

高校時代とて同じ事でした。ただし現代国語の恩師がほんの数十分ですが蝸牛考、方言周圏論と柳田國男について教えてくれた事をよく覚えています。ただし問題は古文です。三年間を通じて二人の恩師に教わりましたが両先生から一切、方言にまつわる講義は受けていません。つまりは当サイトにある古文にまつわる記事はすべて独学です。

あるいはこうも考えられるのです。高校生当時に古文の時間にあれこれ教授されていたのなら私の興味はそこで終了、大学入試に役立つ知識でもあるまいし、今の私のように人生晩年に至ってあれこれ古語辞典を引く事が果たしてあったでしょうか。美味しいところを残してあったという訳です。

つまりは日本の学校教育では方言はジプシー言語扱いです。方言を忘れなさい、と教育されてきたのです。私が飛騨方言の文法にこだわるのもこれが為です。つまりは飛騨方言を日本語文法に即して解析できないと恩師に褒めてもらえません。という事で願わくばかつての国語の恩師にお会いして飛騨方言について議論をかわしたいところです。

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