人が他人に方言を話したくないのは、一言で言えば素性を知られたくない
という事に尽きると思います。
これに関連して、格言・井の中の蛙大海を知らず、これって
飛騨の人間にとっては本当にいやな格言ですね。
島国日本なのに海を見た事のない人もいる地方です。
海水浴をした事がない人間はザラでしょう、実は私。
かわず、という言葉や井の中の蛙の格言を知るのは
たいてい小学校でしょう。思い出します。
担任の先生は別に他意があって話される訳では
ないのに、少年佐七の心にはグサッとくるのです。
確かに僕達飛騨の子供は海を見た事がない、
せいぜい秋の遠足で近くのダム湖の湖面を見てくるだけ、
それでもその湖面を見て広さに感激しつつも、もっと広い
海ってどんなのだろうと。
また授業を思い出し、飛騨の子らは所詮、かわずの子なのかと
考え込んでしまうのです。
かといって高山市は裏日本なのに岐阜県の一部という事で
東海地方です。東海という言葉がなんともはや広々とした
感じでなんとなく嬉しく感ずる、そんな無邪気な人が
多いのも事実です。飛騨方言は東海方言ですか、と聞かれれば
高山市民は言うにおよばず、飛騨市の方も、
その通り裏日本方言なんかじゃない、というかも知れません。
せめて東海地方という名前だけでも
海洋国日本の国民、太平洋に開く東海地方の人間である事を感じていたいのです。
ですからせっかく東海地方なのに、うっかり飛騨方言を話して素性がばれて、
所詮は大海を知らぬ井のかわずと思われる事
がしゃくにさわるのですね。逆にどうでしょうか、
飛騨の人達だけで例えば旅行に行くとします、
車窓からちらっと海が見えでもしたら、
おおっ海が見えるぞ、と誰かが発声するや大騒ぎ、
皆がどりゃどりゃ、おおっ見える見える、海や海や。
ですから海を見ただけでこれだけ感激できる徳を
もった憎めない人種でもあるのです。
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