大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

やってまった

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私:表題だが、ギア方言として人気度は一位、二位というところかも知れないね。共通語では「やってしまった」。
君:一拍「し」が脱落しただけのつまらないお話だわよ。
私:確かにね。でも僕は興味が尽きない。ギア方言の代表格の言葉をあげるならば「みえる」尊敬表現を昨日は取り上げたが、「みえる」と「やってまった」の二語には根本的に話者も聞き手も双方に共通する大切な鑑別点がある。ヒントは心理学、方言と認識するかしないかという意識。
君:「みえる」は気づかない方言、「やってまった」は気づく方言、という事よね。
私:その通り。話者も聞き手も双方が「みえる」を共通語と勘違いして認識している。話者も聞き手も双方が「やってまった」を方言として認識している。気づかない方言はそのまま「気づかない方言」という学術語が用いられる。気づく方言については「方言意識」という学術語がある。
君:屁理屈はさておいて、共通語というか、江戸の言葉だと「やっちまった」になるわね。そして関西では「やってしもた」。
私:そうだね。だから「やってしまう」には東京・関西の東西対立があり、関西では「てまう」表現でウ音便なのに対して、東京は「てまう」表現は存在せず促音便。そしてギア方言は「てまう」表現で促音便だから、つまりは東西対立を足して二で割ったような関係がギア方言「やってまった」だ。ところで元の言葉、古語の言い回しは?
君:「やりてしまひたり」。つまりは「やり」ラ他四連用+接続「て」+「しまふ」ハ他四連用+完了・過去「たり」。
私:そうだね。つまりは現代語「てまう」表現に対応する古語は「てしまふ」だが、「しまふ」ハ他四は中世から近世にかけての言葉。更に徹底的に品詞分解すると「しまふ」は「す」サ変連用+「まふ舞」自ハ四(自動詞ハ行四段)だ。 The verb literally means, i.e., "do jump." ただし近世には「しまふ」は複合動詞と言うよりはハ行四段の補助動詞になったというのが皆様の認識。江戸文学に文例多数。
君:なるほどね、ウ音便と促音便は近世の音韻変化なのよね。
私:まあ、そんなところでしょう。日葡辞書の記載、つまりは中世・近世の上方方言、にはウ音便の記載があるからね。
君:中世・近世で「てしまふ」という事は上方方言の「てまう」表現は必然的に近世という事になり、意外な事に歴史は浅いのね。「し」の脱落が先なのかしら、ウ音便が先なのかしら。
私:おいおい、今、答えを言ったばかりでしょ。ウ音便が先、「し」の脱落はその後。日葡辞書には「しまふ」のウ音便「ximo」の記載が有るんだよ。つまりは「やりてしまひたらば」「やりてしもうたらば」、つまりは「やりてしまふ」「やりてまふ」「やってまう」。
君:東京というか江戸の促音便もそのころ、つまりは中世・近世なのよね。
私:そうだね。そして尾張を中心とした濃尾平野では、その中間の言い方、つまりは「てまう」表現に促音便が、やはり中世、いや近世辺りに起きたのではなかろうか。
君:飛騨でも「やってまった」と言うけれど、なんだかおかしいわね。
私:飛騨はサ行イ音便だから、飛騨工が奈良・平安にせっせと畿内方言を地元に持ち込んだ。このサイトでも何とも出てくる、飛騨方言は文法が畿内でアクセントが東京というストーリーから少し外れるね。
君:何年か前の朝の連ドラ「半分青い」、場所は濃尾平野の東端・岐阜県恵那市岩村が舞台、での重要台詞が「やってまった」、つまりは岐阜県全域と愛知県全域が「やってまった」を話す地方なのよね。
私:それに関西の「てまう」表現でも不思議に思う事がある。終止形では「てまう」だが、完了・過去「たり」が付くと「てしもた」となって、つまりは失われた音韻「し」が復活してまうんやさ(飛騨方言)。それに現代人の言語感覚も不思議で仕方が無い。「しまった!」はどちらかというと物事が完了していなくてしくじった場合に使う事のほうが多いのじゃないだろうか。「しまった」といえば元々の意味は完了した事を示すのに。
君:それは違うわよ。「しまふ仕舞」にはざっと六つほどの意味があり、その一つが「身代(しんだい)を無くす」、つまりは「経済的に破綻する」という事。だから「しまった!」は、つまり「大失敗で破産も同然だ」の意味になるのよ。「やってまった」もそのような意味で使われる事がほとんどだけれど、たまに人に何かを「贈答してしまった」の意味でも使うわね。

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