大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

きびす(かかと)

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私:「かかと踵」の事を飛騨方言で「きびす」と言うのだけど、上方でも使われているようだね。
君:国語辞典にも載っている「きびす」だから、かろうじて方言というべきね。「きびすをかえす」と言えば退却の意味だし、「きびすを接する」と言えば「人の後に密着していく」更に転じて「幾つかの出来事が引き続いて起こる」という意味だけど、あまり使われないわね。
私:古語辞典に「きびす」があって、つまりは近世以前の上方の言葉であったのに対して、「かかと」は近世の東国・江戸の言葉であり、明治以降は「かかと」が共通語・標準語に昇格し、「きびす」は方言とみなされるようになった、という全体構図が見えてくる。
君:ほほほ、じゃあ古語「きびす」から説明してね。
私:ほいきた。「きびす」の記載もあるがさらに古く奈良時代には「くひす」と清音の言葉であったと記載されている。さらに「くひひす」が転じて「くひす」になったらしい。
君:語源が知りたいわね。「くひひす」の意味は何かしら。
私:岩波古語には「くひひす久比比須」の記載がある。出典は華厳音義私記(奈良時代末)、新撰字鏡(平安の漢和辞典)。同時代の音韻には「くひ杭」「くひ(び)頚」があるから大いに関係がありそうな雰囲気だ。がしかし語源は不明と言わざるを得ない。
君:万葉仮名で古代の音韻が判明したという事ね。清音であった事も明らかね。濁音化して「くびす」になったのは何時の時代かしら。
私:「くひす」は宇治拾遺、つまり鎌倉前期。だから清音から濁音への変化は中世だろう。
君:古語の「くひ(び)」は何時からかしら。
私:古代からだね。清音から始まったようだ。「くひ頚」が万葉集。竹取物語(平安初期)は仮名で書かれた最古の小説だが「くひ」。だから「くひ杭」「くひ頚」は同根と考えてよそさうだ。同時に濁音化したのじゃないかな。あくまでも思い付きだけど。
君:「くびす」から「きびす」への変化は何時の時代かしらね。
私:狂言に「きびす」が出てくる。つまり中世には既に「きびす」に変化していた。浪花聞書 (なにわききがき)江戸時代にも「きびす」の記載があり、上方の言葉であった事が伺い知れる。
君:飛騨方言「きびす」は中世あたりの上方方言というわけね。
私:まあ、そんなところだろう。
君:「きびす」はその位にしておいて「かかと」という言葉の歴史もお調べになったのでしょ。
私:ははは、勿論だ。市販の古語辞典には記載が無いが、さすが、角川古語大辞典全五巻には記載があったよ。「かかと踵」。出典は雑兵物語。思わず戦慄を覚えてしまいました。
君:えっ、どうして。つまりは大発見という訳ね。
私:その通り。大発見だ。「かかと」は東国方言だ。雑兵物語は江戸時代のベストセラー本で、関ケ原の戦いの足軽や草履取りなとの無名戦士、つまりは雑兵(ぞうひょう)の功名談を基にした一種の先陣訓。これが実に生き生きとした関東方言(関東ベイ)で記述されている一級の方言資料なんだ。国立国会図書館デジタルコレクションに原本が公開されているが、崩し字で読みにくいので岩波文庫等の復刻版がお勧め。東京語のご先祖様が丸わかりというような書物だ。それに岐阜県民としては同時代の書物「おあむ物語」も見逃せないね。大垣が舞台で、これまたリアルな関ケ原の時代の西濃方言が記載されている。こちらも岩波から復刻版が出ている。

君:なるほど、「かかと」は中世・近世の関東方言だったのね。
私:いや、それはどうかな。文献検索だけで年代測定をする危険性と言ってもいいが、関ケ原の戦いの頃に関東では「かかと」という言葉があった事は判ったが、何時の時代からだったかはわからない。上代からだったかもしれない。一つ言える事は関東平野でかつて使われていた「かかと」が明治政府のお墨付きで共通語に昇格して今日に至ったという事。
君:なるほどね。ところで「かかと」は関東平野に限定の言い回しなのかしら。
私:その通り。「かかと」を意味する言葉は全国で様々で、ざっと数十だが、国研の調査による詳細な方言地図が公開されている。大雑把に記述すれば、東北は「あくと」、関東は「かかと」、飛騨と北陸・近畿・中国が「きびす」、九州は「あど」が多い。
君:八丈方言はどうかしら。
私:「あっけい」だね。
君:では南西諸島は。
私:「あどぅ(びら)」だ。
君:どうやら八丈方言と琉球方言のルーツは和語「あし足」かしらね。
私:氷河期に「ケラマギャップ」は海だったので、和語「あし」が南西諸島で「あどぅ」になったのでは、方言周圏論的には琉球方言は和語の下位分類かも知れないね。もっとも、日琉祖語の理論からは、何かの共通祖先の音韻が「あし・あどぅ」に分かれたという説なんだよ。東北の「あくと」と関東の「かかと」も同根のような感じだよね。
君:わかるわかる、その気持ち。響きはとても似ているわね。ほほほ

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