飛騨方言に「おく」という動詞があるのですが、意味は「中止する」です。例えば、コロナでも自宅で学習すべききなのに「勉強をおいてまって、ゲームで遊んでばかり」は「勉強をやめてしまって、ゲームで遊んでばかり」という意味になります。ここで問題となるのが、「おく」の語源です。先ほど発見したサイトですが、飛騨の方言、加賀の方言(飛騨法人会便り)にある通りですが、「おく」の語源は・・・語源は、仕事を止める時に使っていた道具とかを「置く」のでこの意味になったようです。・・・と書かれていますが、民間語源という事ではないでしょうか。つまりは間違い。
この飛騨方言動詞ですが、私は、臆(おく)する、が語源かと考えています。つまりは、古語辞典の通りですが、おくす「 臆す」自動詞サ行変格活用(サ変)、でしょうね。あるいは百歩譲って、措く・擱く(他動詞カ行四段活用)が語源でしょうか。現代語に同根の言葉では、心おく、と同意だと思います。つまりは〔「心おく」の形で〕心に隔てをおく、即ち、気兼ねする、の意味になります。現代語としても古風な言い方、例えば、感嘆おくあたわず、などは、飛騨方言・おく(=中止する)と同意でしょう。(素晴らしいので、この)感激はとまっちゃう(自動詞)事ができない、感激は自動停止できません、感激しっぱなしです、という最大限のほめ言葉でしょう。
ところで、飛騨方言の現代語では「勉強をおく」というように使用するわけですからワ行五段他動詞で活用します。私の語源の主張は「 臆す」自動詞ササ変ですが、もとより自動詞が他動詞になる事などありません。ただし飛騨方言自動詞サ変「おくす」が、意味として「中止する」が定着してしまい、やがては自動詞「臆く」は他動詞「置く」との意味の混同が生じてしまい。他動詞「おく」として活用されるようになってしまった、という事なのですよね。
アクセント論の立場からも「置く」は語源とはなりえないでしょう。飛騨方言他動詞「おく」は頭高ですが共通語他動詞「置く」は尾高なので、そもそもがアクセントが違います。古語辞典を引き合いに出すまでも無く、一般的に動詞の意味そのものは歴史と共にコロコロとかわるのが常ですが、さすがに歴史と共にアクセントが変わる事は絶対に無い、というのが私の直感。でも若し間違っていたら御免なさい。 |