大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

しょうし

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私:国語辞典には笑止千万(しょうしせんばん)の語彙の記載がある。とんだお笑い種、という意味だね。
君:今日は飛騨方言「しょーし」のお話ね。
私:飛騨方言及び全国の方言になっている「しょうし笑止」だが、話し出すと実に長くなってしまう。
君:そこを切り詰めて、一言で表すのがこのサイトの味じゃないの。
私:わかった。なんとかやってみよう。何といっても注目すべきは、二つのかけはなれた意味がある言葉という事。ひとつの意味は「とんだお笑い種」だが、もうひとつは「気の毒・可哀そうで正視に耐えない」。飛騨方言では「隣のじいちゃんが熱だいて入院なさって、しょうしなこっちゃさ。コロナやとこわいさなあ。(お隣の御隠居様が発熱して入院なさってお気の毒ね。コロナでありませんように。)」
君:大失敗をして落ち込んでいる人は見てお気の毒という意味じゃないの。
私:いや、違う。交通事故での突然の訃報、これも「しょうしな事」と言う。
君:・・わかったわ。古くは「かわいそう」という意味で、それがいつのまにか「こっけいな」の意味に取って代わられ、方言としては「かわいそう」の意味として現代に生きているという事なんでしょ。
私:まさにその通り。特につけ足す事も無い。ただ、強いて言えば・・
君:・・つまりは、その前後がある、という意味ね。
私:まさにその通り。一番の大元の言葉は「ショウジ勝事」、つまり漢語だ。平家、往生要集、宇津保など。この場合の「勝」は勝ち負けという意味は全くない。勝る、特別だ、の意味でほめる意に用いる事が多かった。「稀代の勝事」の形が多い。事件が起きたのは室町時代だ。
君:事件とは。
私:音韻の変化だよ。
君:・・わかったわ。室町時代には「ショウ」と「セウ」の発音の差がなくなっているわ。
私:それにもうひとつの音韻の変化の事件が起きてしまった。
君:もうひとつの音韻変化。・・わかったわ。「ショウジ」から「ショウシ」へと、つまりは濁音から清音への変化ね。
私:その通り。この二つの事件を合わせると、結局どうなるかというと、書くまでも無いね。
君:ほほほ、平安時代の「ショウジ」が室町時代に「セウシ」になってしまったのね。
私:その通り。その結果、更なる第三の事件が起きる。交通事故になぞらえて、当て逃げ事件とでも言っておこう。
君:ほほほ、ヒントがなくても、そのくらいは簡単すぎて直ぐに答えられるわよ。勝事の言葉に「せうし笑止」の当て字をやっちゃったのね。
私:その通り。その結果、今度は漢字の笑止が独り歩きしてしまって、悪い意味の言葉になってしまったんだよ。その悪い意味の言葉が現代に至るまで使われている。
君:でも、辻褄があわないわね。飛騨方言及び全国の方言の「かわいそう・気の毒だ」の意味は、ほめる意味でもないし、「とんだお笑い種」の意味でもないわよ。
私:ははは、それは素晴らしい質問だ。正におっしゃる通り。「かわいそう・気の毒だ」の意味はほめる意味から派生したんだ。古典の沢山の文例からの慎重な意味解釈から導き出された結論だね。勝る・優れた・素晴らしい事>アンビリーバボーなおよそ考えられないような事>特別にまれな事>とんでもなく困ったり苦しい事、というように意味が変遷した。良い意味から悪い意味に段々と置き換わってしまった。これについては或る法則がすぐに思い浮かぶよね。
君:ええ。敬意逓減の法則ね。つまりは「勝事」というほめ言葉の言葉の価値が下がって、気の毒の意味になったところへ「笑止」の当て字にしてしまったものだから、あっという間に「とんだお笑い種」という意味に代わってしまったのよね。
私:正にその通り。それに室町時代から現代に至るまで「とんだお笑い種」の意味が変わっていないのも理由は簡単だよね。
君:ほほほ、簡単だわ。「とんだお笑い種」以下に言葉の値打ちは下がりようが無いからよね。
私:そう。例えば僕ら昭和世代には「社長」と言えば輝かしいまでの地位というニュアンスだったが、今や社長といっても、ちょっと偉い人程度の意味。シー・イー・オーじゃないと偉い人というイメージがわかないね。米国の大学なんてひどいもんだぜ。
君:えっ、どういう事。
私:一昔前まではね、 Professor でよかったんだが、それでは権威が足りないという事でやたらと長い接頭語(辞)をつけるんだ。権威主義のお手本だ。Harvard University Professor
君:せうし笑止なり。はらいたし。

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