大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
たいもない |
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私:せっかく、こうやってお話に付き合ってくださるのだから、目の覚めるような内容にしたいと常に思っているんだよ。 君:ほほほ。その自信たっぷりな、思わせぶりな言い方。あなたの場合、権威ある書籍の誤謬を発見した位が落ちね。 私:おっ、鋭いな。その通りだ。実は天下の広辞苑に間違いを発見したぞ。 君:ほほほ、御冗談を。まずは表題から説明してね。 私:じゃあ早速。今は2020夏だが、先月に飛騨川が氾濫して萩原町・白川町等が大変な水害だった。あまつさえコロナウイルス禍で岐阜県に緊急情報、つまり県外への移動自粛要請が出された。ニュース動画では未だに飛騨川は「たいもない」水かさ。 君:飛騨ではよく使う形容詞ね。大変だ、とんでもない、馬鹿げた、等々、良い意味では使わないわね。 私:その通り、専ら悪い意味で使う。ところで、方言かどうか、という問題だが、ちゃんと広辞苑に記載があるんだよ、江戸言葉だ。一般の古語辞典には記載が無い。広辞苑の記載だが、「体(たい)もない。くだらない。つまらない。らちもない。「何の―・いことを言ひやって」〈洒・南閨雑話〉」。 君:別に真っ当な記載だと思うけど。 私:いや、問題はだね、洒・南閨雑話(洒落本・なんけいざつわ)の引用だ。南閨雑話とは洒落本。夢中山人(むちゆうさんじん)作。1773年(安永2)刊。1冊。南閨は品川の遊里をいう。国元から上った藩の重役人を,江戸詰めの作事役人沢井が,工事請負人忠治や材木屋の若息子幸治郎,大工長七などと品川の遊里に遊ばせるという構成をとる。あまりよくもてなされない役人の武士客や,なじみの女と痴話喧嘩を楽しむ忠治や,初会の女郎に惚れられるうぶな幸治郎などが,いきいきと描かれている。品川を扱った洒落本の代表作という事だが。 君:うーん、私もそこまでは詳しくなかったけど。閨の意味は婦人の部屋、男女の情事ね。春閨とか。でも娘の子を閨愛というし、あなたは医者の閨閥よね。悪い意味ばかりじゃないわ。 私:話を勧めよう。江戸の女郎宿で話されていた「体もない」だが、洒落本なんだから、どうせなら「他愛もない」と書いて欲しかったぜ。ははは 君:えっ、そんな事を。それはあなたが間違いで、南閨雑話つまりは広辞苑の記載が正しいわよ。 私:ははは、冗談だ。飛騨方言「たいもない」の語源は「体もなし」で正解だが、そもそもが「体もない」はどこから来た言葉だと思う? 君:うーん、わからない。 私:ははは、僕も実はわからないが、ひとつ言える事があって、相撲の言葉に「体もない」がある。「体」とは二人の力士が相撲を取る姿勢が出来ている事を示し、逆に出来ていなければ「体も無し」。早い話が、あらら、廻しが緩む事だってある。そうなると緊急事態が発生という事で、行事が瞬時に軍配にて待ったをして、土俵中央で廻しを締め「体がある」状態にさせ、両力士を同時にポンと叩いて、さあ・取り組みなおせ、と促す。これが相撲の美学だ。 君:あら、相撲が詳しいのね。 私:ああ、大好きだ。よく行っていた。正面の砂被りの席のチケットを義理の母からもらった事がある。結婚して直ぐの時だったな。ひと月前に背広を新調し、前の日には床屋へ行ったよ、ははは 君:ほほほ。お母さまも義理の息子が命ね。いつの事? 私:1983年夏場所、愛知県体育館。北の海親方が正面審判、私は彼の右横に座った。実は北の海とは同い年なんだ。千代の富士全盛の頃、古い話だよ。江戸時代に、飛騨に怪力・白真弓という横綱がいた。伝説のヒーローだ。 君:趣味が多いのね。今は誰を応援しているの? 私:ははは、こう見えても僕は男だぞ。相撲の嫌いな男なんかいるものか。聞かれるまでも無い。炎鵬晃だ。 君:ほほほ、炎鵬さんね。私もよ。 私:脱線したな。「体も無い」は相撲用語か遊里の言葉か、のどちらかだろう。天下の広辞苑に物申す。 君:ほほほ、ニワトリと卵問題ね。相撲の用語が遊里で使われるようになったのか、あるいは逆か。 私:そうなんだよ。でも、そんな事は大したことじゃない。火事、喧嘩、相撲は江戸の花、とか言うだろう。相撲用語も遊里の言葉も同時代の言葉でありんす。 君:ははあ、わかったわ。「体もない」よりもっと古い言葉がある、それが語源という訳ね。 私:ははは、その通り。もったいぶらずに結論を書こう。「体もない」のルーツは「益体(やくたい)もなし」だ。この言葉ならどの古語辞典にも記載がある。浄瑠璃・近松などの文例があるから「体もない」と同時代と考えられなくも無い。ただし「益体もなし」は日葡辞書に記載がある。 Yacutaimo nashi 君:つまりは「やくたい」益体の成立時期は室町なのかもよね。なんちゃって和製漢語なのかな。 私:そう思いたいところだが「益体」の引用はどれもこれも江戸。一体全体、どうなってやがんでい。 君:「体もない」から「益体もない」が派生していないかしら。 私:それだけは無いと信じたい。根拠としては日葡には「体も無い」の記載がない事。 君:ほほほ。冗談よ。本気じゃないわ。同じ意味の言葉なのに4モーラから2モーラに減る事こそあれ、逆に増える事など絶対に無い、方言学では常識なのよね。 私:方言学の常識というより、国語の常識じゃないかな。 君:あなた、いつの間にか随分と偉くなったわね。この私に向かって。 私:ははは、ほめ殺しか。 君:ほほほ、おあにいさま、そうでありんす。 まとめ 言語学の祖・ソシュールがこの僕に教える。二つのシニフィアン「益体」「体」のシニフィエは同じ。「たいもない」が良い意味で使われる事などない。若し使われているとすれば誤用と言うしかないが(例えば「たいもない名演技」のほめ言葉)、誤用が一般化すればそれが正しい言葉遣いという事になる。つまりはシニフィエは極まれに変化する事があり、あまつさえ、元来のシニフィエの用法「たいがある名演技」が誤用呼ばわりされるという、最悪の結果を生む。 |
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