大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

まて(生真面目)

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私:さあ、今夜の話は飛騨方言「まて(生真面目)」だ。
君:ほとんど話されていない、死語に近い言葉だわよ。
私:それをいっちゃあ、おしまいだ。飛騨方言では「まちょう」「まちゅう」「まちよう」「ましよう」などとも言う面白い言葉だ。土田吉左衛門著・飛騨のことば(高山市の昭和三十年代の言葉一万以上を記載)から拾い出した。
君:へえ、飛騨ですら方言量が5、死語のオンパレードで結構あったわね。「まて(生真面目)」は全国的にも話されている言葉よね。
私:勿論だ。全国津々浦々の方言になっている。それどころか「ましょう」もだ。更には、つい先程だけど、世紀の大発見があったんだ。
君:ほほほ、大げさな。「まて」と「まちょう」の関係について気づいた事があったんでしょ?
私:ああ、そうだ。ざっと15年ほど「まちょう」の語源は何か考えていた。方言の書などに、「まてなり」の転、と記載されている事が多いのだけど、こういう事をあまり赤裸々に書きたくないが、間違いだよね。
君:全国の皆様が貴方の話に付いていけないわよ。例文を出しなさいよ。
私:ああ、そうだね。「あいつぁまちょうな男なんや。」と言えば「あいつは生真面目な男なんだ。」という意味で、飛騨では日常会話で用いる。
君:古語だと「あやつまてなるをのこにてあり。」よね。
私:君は古文がご専門だから古文への訳がすっと出てくるね。これからもチョクチョクと翻訳お願い。早速に本題だが、「まて」が「まちょう」に音韻変化する事は有り得ないだろ。おかしいと思わないかい。
君:確かに変よね。母音交替ってそんなにある事では無いと思うわ。
私:母音交替が起きるのはほとんどが連母音で長音化する時だよね。
君:「あう」が「おー」になるとか。
私:その通りだ。
君:要は、あなたがおっしゃりたいのは「まて」+「う」、あるいは「まて」+「ふ」等の接続で「まてう」になる事なんか無いという事ね。
私:ああ、そうだ。第一に「まて」は名詞だろ。体言が活用してたまるか。
君:でも体言+体言で複合語の事もあるでしょうし、形容詞・形容動詞の語幹は体言だわよ。
私:だから「う」とか「ふ」の体言が無いかな、とか、助詞・助動詞でセンスにあうものは無いか、片っ端から調べたんだよ。該当なしだ。
君:あれこれ調べて無かったとしても証明にはならないわ。あなた、数学の素数問題を引き合いにするじゃない。
私:かもね。素直に認める。アマチュアだからな。がしかし、一応の結論としては「まて」と「まちょう」は別々の体言だろうという事だ。
君:ほほほ、行け行け大西左七。
私:ありがとう。ところで子音交替はどう思う?
君:頻繁にある事だと思うわ。「だしかん」と「だちかん」に根本的な違いなんて有る訳無いわよ。
私:そうだね。だから「まちょう」「まちゅう」「まちよう」「ましよう」は同根に違いないよね。
君:そりゃあ違いないわよ。
私:ははは、だから全国の方言も「まて」か「まちょう」の二つの音韻の系統に収束すると思わないかい?
君:何よ、その嬉しそうな顔。例の日本方言大辞典三巻、語数十万とやらを調べたらその通りだったのよね。
私:ああ、そうだ。その通りだった。そして、方言ハンター左七は古語辞典の探索で瞬殺で語源にたどり着いた。
まて   真手・真体・両手・二手・左右手・諸手
まじゃう 真情・真性
つまりは全くの別の体言が語源だったという訳さ。まさにコロンブスの卵、気づいてしまえば、今まで十年以上も、どうやって「まて」から「まちょう」に音韻変化したのだろう、と悩んで来た事が滑稽に思えてしかたない、「まてなり」の転、の出典は確か物類称呼だったかな、どれどれ・・おっ、そうだった。154頁に「律儀なる人にて」の記載がある。後世の方言学は物類称呼をバイブル化してしまい、あとは「まてなり」の転という文言が独り歩きしてしまったんだ。
君:物類称呼には「まじゃう」の記載が無かったのね。
私:そうなんだよ。越谷吾山も本当に罪な人だ。えっ、なんだって、校訂者が東条操だとは。東条先生こそ罪な人だな。お会いして一言、言ってやりたいよ。
君:ほほほ、言うだけ番長さん。若し本当にお会い出来たら、あなたの性格ではコチンコチンに緊張して何も言えない癖に。今、ざあっと古語辞典を渉猟してみたけど、あなたのおっしゃる通りだわ。「まちょう」の語源は「まじゃう」に違いないと思う。
私:ははは、日葡辞書が傑作だよ。
君:えっ、両語とも記載があったのね。
私:ああ、 Matena まてな Maxona ましょうな、そして説明文は同じ。つまりは中世末から近世にかけて「まて」「まじゃう」の意味の混同が始まったのだろうね。
君:ちょっと待ってよ。「まて」は上代の言葉で、「まじゃう」は近世の言葉よ。つまりは中世までは上方で「ましゃう」と清音で発音していたのを近松が「まじゃう」と濁音化させて江戸の言葉にしたんじゃないの?
私:なるほど、そうか。その通り、君に完全に一本、取られた。日葡辞書は安土桃山時代の畿内の発音をポルトガル語で記載した辞書だからね。
君:それに物類称呼の出版は安永4年(1775)だから当時の現代語たる「まじゃう」の記載が無くて当たり前、東条先生は越谷吾山に忠実に校訂なさっただけ。それに気づかないで不満の言葉がつい出てしまうあなたこそ「まじゃう」じゃないわ。
私:いやあ、もう一本、取られた。その通りだ。この僕が天下の物類称呼の悪口を書いていいものか、すこし躊躇していたのだけど、アップロードする前の君の忠告で僕は救われた。
君:ついでに「まて」の深堀りをしてみてね。
私:あっ、はいはい、各種の辞書によりますと「ま真」とは二つ揃っていて完全である意味の接頭語。だから両手・二手・左右手・諸手等の漢字が充てられる。要は両手でお祈りするポーズ。そこから真面目・律儀・実直・愚直・愚鈍などの意味で用いられる。古語での反対語は「かたて片手」だけど、古語「かたおち片落ち(えこひいき)」などの悪い意味の言葉に「まて」の反対語の意味が残っている。
君:言葉を勉強してね。片鱗が残っているというのよ。
私:仮名・真名というから「仮手」かと思って調べたら、そんな古語は無かったよ。
君:かってに「仮手」なんて言わないでちょうだい。
私:ところで「まて真手」は「またし全し(形ク)」と同根という記載もあるね。そりゃそうだろうな。
君:あらどうして?
私:だって飛騨方言「またじ(お片付け)」の語源は「またし全し(形ク)」だよ。「またしゅうする」が「またじをする」に変化したわけ。僕が勝手に考えた事だけど。
君:あらら、でもセンスとしては意外にぴったりね。誰も異論はないと思うわ。「まて」と「またじ」は同根で「またし全し(形ク)」が語源なのね。
私:岩波古語の編者・大野晋先生のお考えだとそういう事になる。あのお方も本当にユニークな学者さんだね。
君:あがせ(吾が背)もことやう(異様)なるこころばへ侍りし身にていとをかし。あなたこそ愛人じゃなくて変人。

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