大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

古典文法・助動詞「らむ」

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2005年から飛騨方言の勉強を独学で始めたのはいいものの三年坊主、11年のブランクがありましたが、昨年2019年から再び執筆しています。少しずつ感が戻りつつあるようなので、書くのが楽しくなってまいりました。早速に本題ですが、先ほどおかん(かあちゃん)/飛騨方言バージョンを発見、ルートを探るとオフィスまけという事で、ようやく納得。ほうげんよみの箇所に全国の方言を題材とした会話集をお乗せになっていらっしゃいます。

私が知る方言は唯一、飛騨方言だけですから、他の地方の方言についてあれこれ批評する資格は全くありませんが、少なくとも飛騨方言については読んでセンスにあうかどうか程度はわかります。上記サイトの内容でどうもしっくりしない箇所が何か所かありましたので、最近の飛騨の若い人々はそんな風にしゃべるようになったのかな、と一瞬思ってしまったのですが、実は杞憂です。夫婦で全国の方言を扱っておられるという事は何らかの形で飛騨方言を勉強なさって、ウエブにアップされたのでしょうが、会話の内容は、いわば、なんちゃって飛騨方言、という感じで、言い回しがおかしい箇所があるのです。

焦点がぼけないように、一か所だけを指摘しておきましょう。
「しらんさ。 どして トラと ライオンが しょうぶせんにゃだしかんのよ。  だいたい おるどこが  ちがうんでねーろ?」
の文章ですが「ちがうんでねーろ?」の箇所が明らかに飛騨方言のセンスに合いません。飛騨方言では「ちがうのではないでしょうか?」という意味で「ちがうろ?」とは言いますが、「ないろ?」というように、方言文末詞「ろ」が形容詞終止形に接続する事は普通はありません。たかが方言文末詞、されど方言文末詞。この用法については別稿・飛騨方言における終助詞・ろについて詳述した通りです。

さて、ここからがとっておき情報ですが、この何とも奇妙な飛騨方言に特有な方言文末詞「ろ」ですが、私流の解釈では古典文法・助動詞「らむ」であると考えると何から何までピタリとあうのです。まずは大原則として、古典文法も、国語文法も、飛騨方言の文法も、三者は日本語であるという点で共通にて文法骨格は同じです。簡単におさらいしますと、活用は「終止・連体・已然」で「らむ・らむ・らめ」ですね。終止形に接続します。ラ変型活用動詞「あり・をり・はべり・いまそかり」等では連体形に接続します。『ひさかたのひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ』、ところが飛騨方言では「終止・連体・已然」の「らむ・らむ・らめ」が「ろ・ろ・ろ」の活用なのです。従って「花の散るらむ」は飛騨方言では「花は散るろ。」(花が散るのでしょうね。)になるのです。
憶良おくららは 今はまからむ 子泣くらむ それその母も 吾あを待つらむぞ (万葉)
現代語 遂に出張か。家では今ごろ子が泣いてるね。その子の母も私を待ってるね。嗚呼
飛騨方言 そしゃ行かにゃ。うちの子ぁ泣くろぅ。そりゃ子の母も(夫の)わしを待つろなぁ。
Dialetically, the above sentence makes pretty sense. 飛騨方言では「ぞ」は「ろ」に接続しませんね。むしろ「待つろ」+「な」(待つのだろうなあ)等、詠嘆の文末詞に接続するのが自然です。

くどいようですが飛騨方言とて国文法なのです。形容詞「ない」を活用させるのなら「ないがろ?」というのが飛騨方言ですし、形容動詞を用いるのなら「ないんじゃろが(ないのだろうか)?」というのが飛騨方言の文法です。従って、「ねーろ?」という表現は飛騨方言ではないという以前に、日本語として疑問、とも言い換えられるのです。せめて「ちがうんでないかろ?」にすべきでしょうかね。
形容詞 :かろ・かつ・く・う・い・い・けれ
形容動詞:だろ・だつ・で・に・だ・な・なら
あるいは「ちがうろ!くそだあけじゃぁ、わりゃ。ちゃんと勉強せにゃだちかんぞ。」位なら立派な飛騨方言表現なのですが(汗)。語気を強めて「ろ!」と言えば詠嘆というよりは、むしろ「呆れ嘆く」の意味ですね。たったひとつの文末詞の言い間違いが作品をスポイルしてしまいますので、戯曲等では方言監修は必須という事になります。たかが飛騨方言、されど飛騨方言。くわばらくわばら
まとめ 飛騨方言に特有な不思議な感じの文末詞「ろ」は古語の「らむ」、でも若しかして間違っていたらごめんなさい。

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