大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
そしゃ(=そうすれば) |
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私:頭高アクセント「そしゃ」というフレーズはまことに使い勝手がいい飛騨方言だね。 君:単独で短文、つまりはお別れの挨拶の言葉になるわよね。 私:うん。男女とも使う。という事で、そしゃ。 君:ええ、そしゃ。今日は極短の千一夜ね。ほほほ 私:冗談はさておき、僕の悪い癖で、どうしても品詞分解したくなる。 君:「そ」はコソアドではなく副詞「そう」、「しゃ」は方言文末詞ないし接尾語(辞)といったところかしら。 私:その通り。副詞「そう」の語源は「さ(然)」の転で「さふ」とも表記されるね。「そのように、それほど、そんなに、しか」等の意味がある。「そう難しくない」などと使う。問題は「しゃ」だね。 君:飛騨方言の音韻の得意技で短呼化というか拗音化じなないかしら。語源は「しや」、つまりサ変「す為」連用形「し」+係助詞「や」、つまりは係り結び。 私:そうだね。でも「そしゃ」の語源が「さふしや」、つまりは「そのようにするだろうか」と解釈すると、つまりは疑問・疑念・反語という事で否定文になってしまうぜ。語源は「さうせばや」じゃないかな。 君:確かにそうね。「そしゃ」の意味は「それでは(そのようにしましょう)」という念押し・確認の意味だから、否定文の解釈ではいくら何でもまずいわよね。 私:やれやれ、ご先祖様がたも罪な言い方をなさって。でも反語とすれば、続く文章がおおよそ検討が付くね。「さふしやあらがふ(そのようにするだろうか、つまりは言い争うなんて)」、つまりは「議論は出尽くしたから、もう話す事なんてないよね」という意味なんかどう?この係り結びだが、「あらがふ」がやがて省略され、「さふしや(やがて「そしゃ」)」だけで「(議論は出尽くしたから)話す事なんてないよね」の意味になった、つまりはお別れの挨拶の言葉になったという事じゃないかな。「あらがふ」なんと4モーラの動詞じゃなくても、もっと短くて自ラ変「あり」でもいいのかな?「さふしやある」。 君:いいえ、それはかなりまずいわよ。「さふしや」は使役の意味を内包しているから、続く反語の部分は必ず他動詞でなくちゃいけないのよ。 私:なるほどそうか。じゃあサ変「す為」でいい訳だ。「さふしやする」サ変でサ変を否定する反語文だ。ぶふっ 君:飛騨方言のサ変はエ段でも活用するわよ。つまりはサ下二。「せ、せ、せれ、せる、せる、せれ、せよ」 私:となると「さふせやせる」もありだね。 君:ええ、ありだわ。 私:つまりは「さふせや」が「そうせや」、そして遂に「そしゃ」になった可能性もあるね。飛騨に生まれ育った有難いところで、古典文法が素直に心に響く。 君:話はまだまだだわよ。係助詞「や」は、やがて単独で用いられて終助詞にもなるわ。つまりは「や」は係助詞、間投助詞、終助詞。終助詞のポイントは活用語の終止形に接続して係り結びは破綻、つまりは「や」は文全体に疑問がかかるのよ。係助詞といえば「ぞ、なむ、や、か」。問題となるのが「や・か」の区別。「や」は文全体に係り、活用語の終止形に接続、疑問文はつかないのが普通。これに対して「か」は付いた語のみに係り、活用語の連体形に接続、疑問文はつくのが普通。四段、下一、上一は終止形と連体形が同じだから接続の区別は無いけれど、カ変、サ変、ナ変、上ニ、下二は終止形と連体形が違うので「か」と「や」では活用が異なり、要注意。試験の山。「たれかある」「かかることやあるらむ(係助)」「あはれ、いとさむしや(終助)」 私:・・。なるほど、わかったぞ。お別れの挨拶は終助詞だ。言い出しっぺの人の「そしゃ」は実は疑問文であり、質問文でもある。「そしゃ?」という意味であり、議論を終わりにしてもよろしいですか?」という、念押しの意味だよね。 君:ほほほ、その通りよ。そしてお相手が「そしゃ」と返事する意味は、単なるオウム返し「こちらも了解しました Roger」という意味なのよ。 私:つまりは本来であればお別れの挨拶で言い出しっぺは「そしゃ?」の上がり調子の質問文であり、受け手の「そしゃ」は下がり調子の確認文という事だったんだな。でも、友達同士などのお別れの挨拶は下がり調子の「そしゃ」を使って、「もう十分だな、おしまいにしようぜ」と切り出すこともある。つまりは半ば命令文のニュアンスもあるね。 君:そりゃそうよ。全ては文脈で決まるのよ。 私:いつか逢える事はわかっていても別れはつらいよ。今生(こんじょう)の別れなら猶更のこと。 君:逢うが別れのはじめとか。泣ける事が多いわね。 私:心理学的には見送る側のほうが見送られる側よりも数段に辛い。人を見送るほど辛い事は無い。純文学の永遠のテーマとも言える。 君:あら、いやだ。何の事。ほほほ |
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