たまに故郷に帰るとホッとするのは、
やはり見慣れた景色のなせる所でしょうね。
高山に寄る時は国分寺にぶらりと寄る事が好きなのですが、
住職様のお住まいが同じ敷地の中にあって表札が北原です。
実は筆者の高校の恩師、担任のお家でした。
日本史を教わりました。
いつも故人のお墓にはお参りせず、本堂にお参りしてお仕舞いです。
いつぞやですが、わしゃあんたの事思いだせん、と
おっしゃいました。その正直な所がとても北原先生らしかったですよ。
ふふふ。
ところで何といっても国分寺は奈良時代からあそこにあるのがいい。
それに比べ陣屋の歴史の浅い事、国分寺こそが飛騨の民の拠り所でなくて
どこが飛騨の民の拠り所でしょうか。
前置きはさておき、村では中央に学校がデーンと
あり、なんといっても村人の拠り所でしょうが、
大西小学校はとうの昔に廃校になってしまいました。
何かおんぼろ木造校舎の用途がないか、
廃物利用という発想で一時は一階の一部が
大野農協で使われていたのですが、
いつのまにやら取り壊されてしまいました。
理科室にあったホルマリン漬けの
瓶群、また朝な夕な、あるいは運動会で聞いた校内放送用の
レコード、
八ミリ映写機があって何度も観たブレーメンの音楽隊の
人形劇、皆どこへ行ってしまったのでしょうね。
講堂も取り壊されました。
壁に木製の大きなプロペラが飾ってありました。
多分、戦前からだったのでしょう、
若しかして軍用機のプロペラだったのでしょうか。
ところで旧大野郡宮村宮小学校。
わしゃくやしょうて たまらんさ。
美濃加茂市にある日本昭和村に移転されて
安住の地をみつけてまったんやぜな。
大西小学校と、えらい違いやながい。
おりゃ宮小学校なら、日本昭和村行って懐かしさで
胸がつまりました、って記事書いで終りってどこやさ。
はちきれんばかりの思い出が大西小学校にありますが、
廃校ゆえ残されたものはといえば私蔵の
アルバム程度です。やはり校舎は残して欲しかった。
そしてそこで恩師と再会を果たしたい。
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