大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 題して佐七のブログ 

神岡鉄道へようきてくれなった

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2006年(平成18年)12月1日 本日の某朝刊ですが、いよいよ廃止となる神岡鉄道が昨晩は多くのキャンドルサービスで見守られる中、最後の便は静かにホームを離れて、というような記事が写真とともに紹介されていました。飛騨は広い、私自身は実は神岡の町をを訪れた事もその鉄道を眺めた事もなくて、正直申しますとあまり感慨というものは沸いてきません。先だっての記事によりますと全国の鉄道マニアが、駆け込み乗車と写真撮影のために続々と神岡鉄道に集結したとか、私が読んで思った事は、あらまご苦労様。

先ほどですが、神岡鉄道公式サイトにアクセスしたら、サイトのタイトルが、"神岡鉄道へようきてくれなった"。これには感激しました。飛騨方言の典型的な敬語表現ですね。よくきてくれなさった、の撥音便・語の脱落です。もっとも、大西村の方言ではむしろ、ようきてくれなた、というでしょうね。なった、という促音便とも聞きまがう言い回しから更に変化した、という意味です。つまり、神岡の言い回しは大西村の言い回しより古いのでしょう。大西村では、ようきてくれなた、に足す事の飛騨方言文末詞、という事で、ようきてくれなたさ、あるいは、ようきてくれなたなあ、ようきてくれなたさなあ(以上中性の言い回し)、また、ようきてくれなたえな、などという女性的言い回しがありますね。ただし敬語ですから、〜ぞ、という言い回しは有り得ません。ぶっきらぼうな言い方になってしまい、明らかに飛騨方言の敬語としてはおかしいのです。

飛騨方言では、きてください、という意味の敬語表現では、きてくれんさい、です。きてくれなされ、が変化した言葉なのです。ただし同じ岐阜県でも美濃地方は、おんさい、つまり、おいでなされ、が方言的敬語です。きてくれんさい、は更に詰まって、きんさい、といっても飛騨方言のセンスにあいます、つまり飛騨のきんさい、美濃のおんさい。という事で結びは、
"神岡鉄道へようきてくれなった。鉄道ぁのうなってもまたきてくれんさい。そしゃなあ。たのむぜな。"

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