大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 泣ける言葉

飛騨のつり橋

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飛騨の悲哀をひと言で表現すれば、秘境の過疎化、という事でしょうか。自然豊かな地域で、お猿さんにはとても住みやすいところです。飛騨の山中をオートバイでツーリングしていると、道路を横切る群れに必ずと言ってよい程、遭遇します。ところで先ほどまで暇つぶしに飛騨の歌謡をネットで探していてびっくり、えっ、山口百恵ちゃんって、こんな歌を歌ってたのか。いやあ知りませんでした。




それにしてもねえ、上の歌のつり橋は長野県・上高地の河童橋だし、下の歌のそれは静岡県・大井川にかかる塩郷の吊橋(恋金橋)です。つまりは両橋とも飛騨のつり橋ではありません。旅行通というほどてもありませんし、橋マニアとも言いがたい私ですが、飛騨地方で観光的に成功している、いわゆるロマンチックな橋って無いですね。

山間僻地にある吊り橋と言えば「葛(かずら)橋」で決まりでしょう、しかし、現存するものは見たことが無いですね。一番よくあるパターンが鉄で出来た吊り橋です。ところが錆びていて、交通遮断されていて、当然ながら雑草に覆われ、通行する人もなく、朽ち果てるがままにひっそりとかかる橋。ツーリングしていると時々見かけますが、この橋の向こうにかつては限界集落があり、そして遂に集団離村したのだろうな、と考えざるを得ず、感ずるのはペーソスだけです。ロマンチックさは微塵もありません。

飛騨の大きな河川は三つです。ひとつは★御岳が水源で伊勢湾にそそぐ飛騨川、上流は益田(ました)川といいます。木曽川の大支流です。残り二つは★川上(かおれ)岳が水源の宮川と★烏帽子(えぼし)岳が水源の庄川で、共に富山湾に注ぎます。益田川には交通の難所と言われた箇所が二つあり、ひとつは高山線・渚駅界隈、ここを金森長近が整備して、上呂から飛騨一ノ宮に至る位山官道が数世紀の歴史の幕を下ろしたのでした。もう一か所は中山七里です。つまりは飛騨川には下呂の上流も下流も江戸時代までは難所だったのでした。

昨年だったか、庄川の秘境・大牧温泉に行きましたが、映画のロケで出てくるだけあって本当に見事な秘境でした。庄川には橋すら架けられず、渡し舟でしか訪れる事の出来ない温泉があるのです。その上流に五箇山があり、つり橋跡が保存されていて見学する事が出来ました。また以下の絵図の通りですが、宮川下流の富山県境に江戸時代にあった猪谷関所の籠の渡しが有名ですね。

高山市図書館/高山城下町・飛騨国絵図・高山市史街道編
※『歴史の道 飛騨野麦越中街道調査報告書』中山から一・三キロメートルで飛越国境谷に到着。ここで高原川と宮川が合流、谷と宮川の対岸越中蟹寺村との間に籠の渡しがあった。両岸の絶壁を三条の太綱で繋ぎ、これに藤蔓製の籠をつるし、籠から両岸へ引いた引綱と控綱をあやつって渡った。安藤広重「籠の渡し図」にも描かれる。明治五年に板橋になった。かつての激流は今では神通川第一ダムの湛水で深い淵となり、昔の面影は無い。この先、中街道は越中蟹寺村を通り、富山藩西猪谷関所を経て西猪谷へ出、庵谷峠−片掛−楡原−西笹津村−八尾を通り富山(西笹津村−渡船で東笹津−富山)に通ずる。奥飛騨の高原川・宮川筋の地方と越中は、気候風土が一致、距離的にも近く、北陸の文化と物資が越中を経て奥飛騨へ移入された。
江戸時代まではこの細い蔓橋が北陸と飛騨を結んだ文化のかけ橋だったのですから、いやはや。

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