金田一春彦先生の随筆か何か、忘れてしまいましたが、方言の研究会などで発表があると、必ずひとりや二人の方が、"私はその言葉を母語としていますが、そんな事を今まで聞いた事がない。一体全体、本当に方言のお話ですか。" などと質問される方があるようですね。一番の嫌われ質問だそうな。
さて、人間学 anthropology とは人間を考える学問、ところが人間でない人間はいない、だから人間は誰もが人間が何かを知っている、数学や英語は一生懸命に勉強しないと真にマスターはできないが、人間学とはそのような苦労は不要、ただじっと自分自身を見つめてみればよい、だから人間学を知らない人間はひとりもない、という事になるのでしょうね。
例えば飛騨の方言に関しても同じ事がいえましょう。詳しい文法の事も、国語史も知らなくても、飛騨に生まれ育った人なら飛騨方言が何かは誰もが知っている。聞いた事の無い言葉があると、おりゃ生まれも育ちも飛騨やでなあ、はっきりいってよぉ、飛騨方言にゃあ自信があるんやさ。もっともなあ、飛騨方言以外で自信のある事なんてひとつもねぇけどよ。まあ、そんなごたあ、えながい。(=そんな事はいいじゃないか)
そやけど、わりゃ今そった(=お前が今言った)、そのだばえた言葉ぁおりゃ今までいっぺんも聞いたごたぁねーさ。おりぃの頭んなかでゃあ、その言葉ぁ飛騨方言でねえぞ。こいつだけぇゃあ自信があるぜな。 という事なのでしょうね。それでも、受験勉強で英単語を何千と覚えたような努力をして飛騨方言を覚えた人は一人も無く、自称語り部様方でも、飛騨方言の語彙のばらつきというものが必ず有り得る、と認識しないといけないでしょうね。
私も一年前までは、私が知らない言葉は飛騨方言でない可能性がある、なんてえらそうな事を考えていましたが、今は違います。例えば飛騨方言の語り部佐七ですが、ちょける、ままやく、つかげ、はらほうず、等々をこのサイトに書きましたが、本当に聞いた事が一度もないんですよ。実はネット検索で知ったのです。
さて皆様、飛騨方言の定義はなんでしょう。答えですが、飛騨のなかで、二人以上が話していればそれが飛騨方言である。なにせ十五万人住んでいますので、随分の語彙、私の知らない言葉がまだまだあろうというものです。
それに飛騨方言を知ると言う事は、つまりはお隣の県の言葉を知っている、という事なのかも知れません。佐七も自由に富山方言、信州方言、金沢方言を話したい。人間がわかれば他の動物もわかるはず、飼い犬の気持ちがわかる人は十分に人間学を学んだ人でしょう。 |