石川啄木の歌・「故郷の訛り懐かし停車場の人込みの中にそを聞きに行く」 ならば
どなたも素朴に共感できましょう。
実はその逆の話がある、というとっておきの話をお披露目しましょう。
戦前生まれの筆者の叔父からちらっと聞いた四十年以上も前の話を覚えていますので。
話というのは以下の通り、戦後まもなくの頃か、生まれも育ちも大西村の叔父が何かの用事で
上京した事がありました。
人・人・人、大変な雑踏の東京駅、ぼんやりしていた所へ同世代の若者から
不意に声をかけられたのです。
あの・・、もし・・、大西君ではありませんか。
叔父は声の主を見やると、あれまあ、なんという奇遇・竹馬の友、数年前に東京に
就職していた同級生が偶然にも目の前にいるのです。
二人の間に一瞬の沈黙が流れ、そして叔父は彼に返答します。
そっ!そやさあ!大西やさあ。
そやが(=そうだけど)、なんじゃよう、わりゃ東京のどっかで生きとるかと思っとったんやが、
まあ、ようこんなどごでバッタリめぐりあえたもんじゃなあ。
・・・そやけど、なんじゃ、わりの(=お前の)今の言い方ぁあ。
大西君ではありませんか
ってのぁねーろ。ちょっと東京にすんどるってくれーで、いさってまって(=いばってしまって)。
とにかく叔父は彼の一言ですっかりとその男を見損なってしまったそうです。
当時の叔父は都会に住む人達への劣等意識が相当なものだったのでしょう。
東京語を語る東京在住の同級生に虫唾が走ったのです。
それにしても、えこじな叔父ですが、佐七はその気持ちが判らないわけではありません。
つまりは叔父の同級生は、人違いであってもかまうものか、飛騨方言でズバリ、
おい、わりぃ(=おまえ)!大西やろ!!偶然やなあ、まめがよ(=元気かい)?!!!
と声をかければよかったのですね。若し、人違いであったのなら東京語ですかさず、
失礼しました。知り合いにあまりによく似ていらっしゃるものですから、
つい声をかけざるを得なかったのです。今のは飛騨方言です。私は岐阜県の飛騨の出身です。
と、詫びれはよかっただけの話ですものね。実は以上が前置きです。
本題は、叔父・大西の友人の気持ちです。
最初に叔父に気づいたものの、まさか大都会で不意に大西に出くわすわけがない、
せめて一言、故郷の訛り懐かしい飛騨方言を話していたのなら、すかさず、大西やろ!!と
言いたかったのでしょうね。
叔父も一人で無言の上京では故郷の懐かしい顔だけをぶらさげていただけであり、故郷の訛りを出しようが無かったのでした、ふふふ。
|