飛騨以外の方が飛騨方言を聞くとどのように
感ずるかという命題ですが、関西方言風という答えは
飛騨方言の文法・文末詞に着目した発想で国語学・
言語学の問題といえましょう。別稿にお書きしました。
さてネットには実に様々な飛騨方言情報があり、
実は飛騨方言がフランス語風であると感ずる、という
記事もあるのです。
公開情報ですから引用していけなくも無いのでしょうが、
ご興味ある方はご自身で検索なさってください。
勿論、飛騨方言とフランス語には何の共通点も
有りません。従って心理学の話題となるのですが、
ひとつには褒め殺しという事でしょうね。
飛騨方言は聞きづらく、意味が不明で、
まるで外国語のようである、という意味での
直喩ではあっても、例えば飛騨方言はアフリカあたりの
少数民族の言語風である、などと比喩しては
まずい、という意識が働くのでしょう。
その点、フランス語なら文明国の言葉、優美な言葉、
発音が美しいなどの評価が高い、多くの文学作品がある、
等々により、似てるねといって気を悪くする
飛騨人はいないだろうという意味なのでしょうね。
よいしょ記事という訳です。
英語ならば中学で誰でも学ぶから直喩のしようがない。
ドイツ語、ロシア語、等はなんとなくいかめしい感じがする。
中国語、韓国語は隣国すぎて比喩はまずい。
やはり遠い国フランスが良いのでしょうね。
また、これはまんざら荒唐無稽な発想ともいえないのです。
志賀直哉の日本語廢止論
というサイトに詳しいので、お暇な方はどうぞ。
小説の神様を魅了したフランス語でした。
|