別稿・飛騨方言における戦後の男子第一人称
の通りですが飛騨方言においては、僕・おり、が子供の言葉で、わたし、が大人の言葉でしょう。
つまりは第一人称に私を用いる事は元服の儀式という事ですね。
分かり易い点です。
さて飛騨方言では女子は老いも若きも幼きも私を
用いますので元服がわかりにくいのですが、
男女の共通項を考えて見ますと。
敬語、とくに尊敬語・謙譲語、がきちんと使える事、が
第一点でしょう。
丁寧語を使う事も元服すると言う事でしょう。
早い話が共通語であらたまって話す事
が出来れば元服というわけです。ただし現代人においてのみ。
江戸時代の飛騨の民、百姓の子は元服したら途端に、
父上殿かたじけのうございます、などという事が
あったのでしょうか。
時候の挨拶やお上手がいえるようになる事が
やはり元服でしょうね。 丁寧語で、とは限りません。
道ですれ違う人に挨拶もせずモジモジしていれば
子供のしぐさそのものですが、おはようございます、
なり、例えば今の時期、あーれ今朝もしみるなあ、
などと一言いえれば大人の会話、と言う事になります。
お礼、おわびの言葉が出てくるとやはり大人の
会話になりましょう。
あーれすまんなあ、うたていさ(=かたじけない)、
こわいえな(=恐縮します)、えんがな(=よろしいですか)、
そしゃ遠慮のう(=では遠慮なく)、ためらえ(=お大事に)、などですね。
つまりただニコニコ一言、ありがと、では子供の言葉です。
大人びた言葉になるのはやはり中学生あたりからでしょうか。
高校生以上、あるいはましてや大学生・社会人では
言葉が元服していないと少しおかしい、という事になります。
でも、ままごと遊びをしていて親から、"佐七よお前の
ことば使いもなかなか様になっているぞ。
ままごと遊びはいいことだ。"
と褒められてうれしかった事も覚えがあるのですけどね。
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