大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
飛騨方言七不思議・何故、飛騨方言は越中方言とのピジン語にならないのか |
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ピジン語というと早い話がチャンポン語ですね。英語でビジネスという所を中国人が、架橋かな、ピジンと言ったところから来るそうな。Pidgin。
北京で話されるからベイジーンが更に訛ったわけではなかったのです。強い言語が弱い言語を滅ぼすのがこの世のおきてですが、両者互角の為に結局は仲良し言語でいきましょう、というのが
要するにピジンなのです。
ところで飛騨方言と富山方言、ふたつを比べたら富山方言のほうが強いに決まっています。越中富山のこうかん堂、失礼漢字忘れました、の薬売りさんがテクテクと飛騨にやってきた。つまりは飛騨には 薬業はなかったのです。また、あれこれと干物などの海産物を背中にしょって、やはり富山から行商人さん方がテクテクと歩いてきた。また、ブリ街道。正月の魚をやはり、富山から飛騨にテクテクと 運んだ。どう考えてみても文化の高い所から低い所への物流です。日本海の文化が内陸に運ばれたのです。佐七は呆然、文化不毛の地・飛騨。 運んだのは人です、鉄道じゃない。そして物だけではなく言葉も運んだのです。つまりは富山方言。そしてあきれてしまうのが、飛騨河合村と富山の砺波平野との距離です。今ヤフーマップでみても数十キロ、目と鼻の距離じゃありませんか。然しながら江戸時代は猪谷関所というのがあって、若し関所破りをすれば獄門磔刑、ですからそんなことする人はほとんどいなかったでしょうね。明治時代になって、ただちに猪谷関所は廃止になりましたが、それでも実は物流は暫くは江戸時代と変わらず、そして言葉のピジン化も一切なかったというのが真相のようです。どうしてこんな事が有り得るのでしょう。 答えは飛騨人の心でした。最近、入手しました河合村誌に面白い事が書かれています。明治になって確かに人の行き来は楽になりました。富山の薬売りさんやら、魚の干物の行商人さんらがテクテクと河合村へビジネスの為、頻雑にお見えになったのです。なにせヤフーマップじゃないけど目と鼻の先、歩いてすぐです。 そして、河合村の人々のリアクションといえば、なんと富山方言は一切、拒絶。あんな、たあけたいな(=たわけたような)、だばえたいな(=堕落した)、おかしたいな(=おかしくてしかたない)富山方言なんか うつってゃあ(=影響されてしまっては)絶対にだしかん(=だめだ)、と言う事で、薬を買おうが干物を買おうが富山方言だけはよそものの言葉、越中さ、という事で村人はかたくなに飛騨方言を守ったのでした。早い話が、県境に、ここからは飛騨の国・飛騨方言の国・佐七が管理人のザ・飛騨弁フォーラムのテリトリーなんやぞう、と言う事で旗をたてたんやさあ。ピジン拒否。 それでも佐七には何となくわかる、河合村から富山に出て行った人は、躊躇する事なく飛騨方言を捨てて、あっという間に越中方言を覚えて富山人に成りすまして富山で上手に商売をしてたかもね。Do in Rome, you know, as the Romans do. 郷に入りては郷に従え。しゃみしゃっきり。 |
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