大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
簡単に地雷を踏む学問、語源学2 |
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私:昨日の記事の続きだが、実は副題があって長谷川忠崇、柳沢淇園(きえん)、鈴木正三(しょうさん)。今日も話題は江戸時代の飛騨方言「でかい」だ。 君:長谷川忠崇は飛州志(1728)をお書きになった天領飛騨のお代官様だから柳沢淇園は多分、同時代のお方ね。 私:その通り。二人は共に元禄の武士で文化人。長谷川忠崇は飛州郡代にて徳川幕府の旗本、柳沢淇園も甲州藩主の家柄。 君:つまりは柳沢淇園もなにかお書きになったのね。 私:柳沢淇園は日本文人画の先駆とも称されるが、女遊びが大好きな人で、著書が「ひとりね・下(1724)」、二百ページが殆ど吉原の女郎や京の島原太夫の記述で、奈良の木辻遊郭の記述もあるらしい。 君:「でかい」と女郎遊びは流石に関係ないわね。 私:その通り。当サイトは良い子の飛騨方言教室ではなく、大学生以上を対象としたエンタメ系サイトだが、ただし、同書はおっぱいがでかい女の話ではない。ただし、ほんの数行、甲州では大きい事を「でかい」という、との記載がある(角川古語大辞典)。残念ながら原本は存在せず、全て写本、記述の真偽を確かめる事も不可能に近いといってもいいだろう。ただし、どうやら「でかい」は元禄時代の飛騨方言の専売特許ではなく、飛騨と甲斐の地域共通方言であった可能性が出て来た。飛州志に軍配が上がるとすれば、これは江戸幕府の公文書、つまりは幕府内で広く閲覧されたのであろう。但し、「ひとりね」に軍配があがるとすれば、これは大衆娯楽の秘本とでも言うべき書物なので、こちらのほうが意外にも江戸庶民の言葉に影響を与えたのかも知れない。真相は闇の中。 君:続いては鈴木正三ね。 私:鈴木正三も武士、後に出家。こちらが大問題だ。鈴木正三は1645年(明暦1)に没、つまり長谷川忠崇、柳沢淇園より半世紀ほど前、江戸初期の人。著書は驢鞍橋(ろあんきょう)。「でかい敵を持ちたる人哉」の文例がある事を先ほど突き止めた(角川古語大辞典4、p524)。 君:つまりは「飛州志」と「ひとりね」の半世紀前に既に「でかい」があり、驢鞍橋に記述があるのがその証左という事ね。 私:有難い事に驢鞍橋は岩波文庫(1948)がある事を先ほど知った。直ちにネット注文した。数日で届くだろう。該当箇所をよく読んで冷静に判断したい。 君:まずは中間報告という事ね。ほほほ 私:その通り。昨日は吉田金彦先生ともあろうお方が痛恨のミス、「でかい」の語源は「でかいた」であろう、との説を、日本語ことばのルーツ探し、祥伝社黄金文庫、にお書きだが、ご遺族の方には多々、失礼な話になろう事を敢えて、先生の書をあれこれ読ませていただいて学んだ身として当記事にて弔意をお示し申し上げたい。 君:はいはい、ではどうぞ。 私:他サ四「でかす出来」は自カ上ニ「でく出来」と自他対をなす。更にひと言、「でく出来」は「いでく」の頭音脱落形だ。「でく」は本来はカ行変格活用、つまりは未然形が「でこ」、中世後期には次第にこれが「でき」の文例が現れ、次第にカ行上二段活用となった。近世には上一段活用化して「できる」、また一部には下一段活用で「でける」が現れるが、俗語表現に留まる。釈迦に説法で申し訳ないが、「でく」が生まれて「でかす」が出来たんだよ。これはサ行四段型の接尾語「かす」の造語作用だ。助動詞といってもいいね。未然形、というか、ア段に下接して、使役の意を強調する。つまり他動詞化だ。文例は、源氏・徒然、他、多数。カ行四段のイ音便はいつの時代からか、という命題になるが中世前後でしょう。近世語としては完成していた「でかいた」。この動詞から転成品詞たる形容詞「でかい」が生まれる事なんで本当にあるのかい?親父ギャグ。 君:驚かす、泣かす、から形容詞が生まれる事は有り得ないわね。 私:ある訳ないよ。この際は徹底的に検証しよう。日本語逆引き辞典を利用して「〜かい」で終わる品詞を全て調べた。およそ千品詞ほどあったが、動詞からの転成形容詞は皆無でした。 君:ほほほ、全てはア行動詞連用形、つまりは日本語の仕組みそのもの・転成名詞だったという事ね。そんな程度の事なら小学生でもよく知っているわね。 |
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