大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

いけない・あかん

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私:今日の方言千一夜も東西対立で行こう。ところで新聞記者の仕事の鉄則「事件が無ければ動物園に行け」という言葉を知ってるかい。
君:知らないけど、流石に意味は簡単にわかるわよ。事件をルポするのが仕事の記者さん。でも、事件の無い日だってあるわ。けれど新聞の紙面は必ず何かで埋めなければいけない。その点、動物園は、キリンの赤ちゃん誕生とか、毎日必ず何某かのエピソードがあるからそれを書く事、という意味ね。
私:そう、東西対立の言葉は無尽蔵にある。たまには気楽に書こうというわけだ。がはは
君:でも読者の皆様に飽きられたらおしまいよ。
私:うん。「だめだ」という意味で、東京・大阪は「いけない・あかん」だが、僕は中部地方の片田舎・飛騨に生まれ育った事を今では大切な財産だと思えるようになった。
君:都会の人が田舎の出身のお方を見て、私には故郷がないから彼が羨ましい、と思う気持ちかしら。
私:ちょっと違うな。西でもない、東でもない。ちょうど日本という国の中央で生まれた、という事。飛騨方言話者たる僕にとって畿内方言も東京語も共に等距離の異文化だから、という事。方言の東西対立という方言学の一大テーマがあるが、僕は行事の位置に生まれたという事だ。
君:飛騨では「だめだ」は「だしかん・だちかん」よね。
私:そう。男なら「だしかんぞ」、女は「だしかんえな」。飛騨は東西のどちらだと思う?
君:ほほほ、簡単よ。語源は「らちあかぬ」、だから畿内方言と完全に同じ、つまりは西側よ。
私:その通り。畿内方言「あかん」は語頭の2モーラが脱落して「あかぬ」から「あかん」になった。飛騨方言は5モーラを温存して子音交替により「だちあかぬ」から「だしかん」になった。
君:東京語「いけない」の語源はどうかしら。
私:和語として中央、つまりは畿内で使われていたのが自カ四「ゆく」だが、これの俗語形・自カ四「いく」が生まれたのが中世、ただし相当の文例があるものの会話文などの用例が大半で、やはり正式には「ゆく」。近世になり江戸が中央になったが、ここで大事件が起きる。江戸っ子が口語形自カ四「いく」をさらに発展させて可能動詞カ下一「いける行」を作ってしまったんだ。江戸っ子だから当然ながら決め台詞が「おっと、いけねえ」。少し柄が悪すぎるね、という事で「いけない」が明治に標準語として定められて「いけない」は日本語として不動の地位を確立し、「あかん」は畿内方言扱いという事になった。
君:「らちあかぬ」について説明してね。
私:「らち埒」は、日朝には拉致問題という外交問題がある、の「拉致」とは全く別の意味の同音異義語。「らち埒」は馬小屋の柵の事。競馬が好きな人は誰でも知っている日本語。これが明かないとは、開かない、と同じ意味。柵とは何かの周囲にめぐらした障壁・障害の例えられ、「らちあく」は障害が取り除かれた事の意味、つまり疑問点が解決して物事がうまくいっている事の例えに使われるようになった。だから「らちあかぬ」は疑問点が解決できない、障害を取り除く事が出来ないという意味で、つまりは「(物事がうまくいっていない状態なので)だめだ」という意味で用いられるようになった。
君:それは上古の事ね。
私:そう、平安時代だな。これを飛騨にもたらしたのが飛騨工だろう。都の直輸入のナウい言い方だったというわけだ。
君:でも、どうして飛騨でも畿内と同じように「あかん」にならなかったのかしらね。
私:飛騨で「あかん」と言ってしまうと、大阪方言を話す変な奴、という事で村八分になるだけ。大西村は、というか、飛騨全体だろうが、関西方言もだめ・東京語もだめ、飛騨方言のみを話していないと仲間外れになるという、ちょっと怖い世界。冗談はさておき、「らちあかぬ」は意味が「だめだ」のナウい言い方という事で、平安あたりに飛騨全体にパッと広まったのだろう。そして皆が使ううちに音韻変化が起きた、という事だ。ここでひとつ、気付く事がある。しかもこれは重要な点。読者の皆様にも少しばかりお考えいただきたい。
君:重要点といわれても。・・・わからないわ。
私:もったいぶらずに結論だ。飛騨の人達は「らち」という響きはかっこいい、ナウい言葉と認識していたが、肝心の事、つまりは「らち」とはそもそも何の意味なのか、「らち」とは「柵」という意味だという事は知らなかったんだよ。
君:ほほほ、それじゃ現代まで「らちあかん」の音韻で良かったんじゃないのかしら。
私:いや、「らちあかん」よりも「だちあかん」のほうが言いやすい。それに「だち」の音韻のほうが断然、駄目だ、という響きがあるでしょ。だから結局は「だしかん」になってしまった。じゃないかな。若し違ってたらゴメンネ。いや間違いない。大西村の誰もが「らち埒」の事を知らないはず。
君:お馬鹿さんね。炎上したらどうするの。ネットは世界に情報を発信の場、どなたが見ていらっしゃるのかわからないのだから。
私:いや、方言発生のメカニズムという点において重要な意味を持つ。例えばカンガルーという動物がいる。英国人がオーストラリアを探検し、奇妙な動物をみて現地のアボリジニ人に「あれはなんという動物ですか?」と聞いたら返事は「カンガルー」。かくしてこの奇妙な動物の名はカンガルーという事でヨーロッパに紹介された。「カンガルー」はアボリジニ語で「わかりません」という会話語。このように心に響くものの意味の取り違えという事で言葉は伝わるんだ。「らちあかぬ」が「だめだ」という意味、ここまでは上古の飛騨人は理解したのだろう。「らち」そのもの意味はどうでもよかった、という事。ソシュール言語学を学ぶとよくわかる。シニフィアンは変化するが、シニフィエは変化しない。
君:「だしかん」がシニフィアンで、「だめだ」がシニフィエという事ね。飛騨方言のシニフィエは一千年以上もびくともしていないのね。ほほほ

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