大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法 |
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私:当サイトは飛騨方言を歴史的観点から捉える事を一番の目的としているので、必然的に古語辞典の話ばかりになってしまう。 君:今まで飽きもせず否定の助動詞「ない・ぬ」の東西対立の事を書き続けてきたわね。飛騨は西側で「ぬ」。例は「あきぬ」。 私:それじゃ口語だろ。「あきず」と言ってくれ。 君:打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」、中世以降は終止形・連体形の混同があって口語では終止形と連体形が遂に区別されず、という事で「ぬ」でもいけない事はないんじゃないの? 私:さにあらず。近世までは「ず」だった。 君:あら、そうね。 私:大胆な私見を述べさせていただきたい。 君:ほほほ、枕詞を忘れているわよ。「若し間違っていたら、ゴメンネ」。 私:うん。では。「ず」は歯茎摩擦音 alveolar fricative+有声母音う といったところ。 君:ふむふむ。 私:「ぬ」は歯茎破裂音 alveolar plosive+有声母音う。 君:そうね。 私:問題が「ん」だ。 君:ん? 私:おいおい、わざと母音化しないでくれ。「ん」は複雑だね。一般的には子音だが二種類あり、軟口蓋鼻音(例、ギン)と口蓋垂音(例、カン)。 君:「ん?」の母音化とはどういう事。 私:鼻母音というんだよ。母音や接近音が続く時の「ん」。例えば「せんえん千円、きんようび、南ア」とか。一般的にはゆっくり丁寧に話す。でないと聞きにくい。米国人はこの発音が苦手。 君:なるほどね。 私:それに撥音というものもある。 君:撥音便ね。 私:いや、それだけじゃない。先輩、仙台、旋回、線、線を、本も、本の、本が、本、本を、等。これらは皆、撥音だ。 君:ふむ、複雑ね。まとめとしては「ん」は軟口蓋鼻音、口蓋垂音、鼻母音、撥音。 私:そう。「せぬ」を飛騨方言では「せん」という。 君:やっと撥音が出て来たわね。 私:うん。でも「せん」は文学的には撥音であり、医学的には軟口蓋鼻音という子音の一種である。 君:わけのわからない事いわないでよ。 私:じゃあ、話すっきりという事で「せん」は軟口蓋鼻音。 君:自分の口の中だから、なるほどそうね。普段は無意識に使っているけれど。 私:文学的な話をしよう。「せず」の連体形「せぬ」が撥音便化して「せん」になった、と誰でも考えるだろう。 君:他ならぬあなたが今までそうやってこのサイトに書いてきたじゃない。 私:どこの教科書にも書いてあるこの説は、実は間違っているのではないだろうか。「せず」が「せぬ」に変化するのは文学の世界。医学的には相当な無理があるんだよ。 君:大きく出たわね。 私:まあ、なんとでも言ってくれ。それじゃ君に質問だ。小学生が「先生、どうしてズがヌになるんですか?」と質問したら、どう答える?近世語・文語から近代語・口語に変化したからよ、とでも答えるつもりかい? 君:ほほほ、私の相手は高校生。皆がそれで納得するわよ。 私:つまりは漢語の連発で生徒さんをケムに巻こうってんですかい?ガラの悪い言い方でゴメンネ。 君:私の前頭葉からすっと出てくる説明なのよ。ここで明治の言文一致運動の話をすれば更に生徒は納得ね。 私:いや、高校生に漢語の連発の話ではなく、小学生を相手にお願い。どうして「ず」が「ぬ」なの? 君:最近のNHKの人気番組。突然に画面が白黒。 私:そう、チコちゃんに叱られる。 君:(ひそひそ) 私:・・つまんねえ奴だな。 君:「ず」が「ぬ」にポンとなるわけないわね。「ず」が「ん」になる、そして「ん」が「ぬ」になる。 私:その通り。医学的な説明に入ろう。舌の位置を考えると、「ん」は「ず」と「ぬ」の中間の位置にある。つまり「ずぬ」と言おうとしても人間にはそもそも無理、どうしても「ずんぬ」になる。同様に「ずん」は言いやすいし、「んぬ」も言いやすい。つまりは口語の世界では、何のことはない、「せず」から「せん」へ一発変換されたという事だったのではないだろうか。「せず」を数百回も連続でしゃべり続けると「せん」になってしまう。言葉はそうやって変化していく。古語がそうやって方言になっていく。まずは第一段階として西日本の「ず」から「ん」の変化は歯茎摩擦音から軟口蓋鼻音への変化と「ず」の有声母音の脱落という同時一発変換、こうすれば俄然、言いやすくなったという事。続いては中央では教養語としての口語音韻「ぬ」が誕生した。つまりは「ぬ」の生みの親「ん」は下品扱いされたというわけだ。かくして口語では規範的な音韻として「ず・ぬ」の二本立てが完成したというのが日本語の音韻史ではないだろうか。どこの教科書にも書かれていないと思う。間違っているかもしれない。若しそうだったらゴメンネ。 君:ほほほ、文語の事は私に言わせてね。「せず」の口語表現が「せん」に変化した時点で、文学でも雅語的に「せぬ」と表記したのでは、とおっしゃりたいのよね。 私:じゃないかと思うんだがね。これも、がはは、中古か近世における一種の言文一致の現象かな。一つ目の結論だが、否定の助動詞「ない・ぬ」で上代東国方言「なふ」が「ない」に変化、そして西日本では口語「せん」出現後に口語「ぬ」の表記手段として文語「ぬ」が出現した可能性がある。 君:既に十分な議論だったわよ。一つ目ってどういう事? 私:順番に、という事。否定の助動詞での否定表現は別名が文法的否定だ。続いては語彙的否定だ。 君:ははあ、文法論をすべてやろうという事ね。 私:そういう事だ。補助動詞ナ下二「かぬ難」「かたし難」「なし無」、つまりは複合動詞、複合形容詞。 君:ほほほ、こちらは文学の世界だわよ。医学の出る幕はないわ。まかせてね。飛騨方言でも普通に使うし、和文作品の代表「源氏物語」だって、「非常」「不意」「無礼」等々、漢語を駆使して使っているわよ。 私:「まちかねて」なんてのもそうだな。飛騨方言では何といっても「だっしゃもない(らちもなし、ちらかっている)」、これが出てこなくっちゃ・・ 君:だしかん(らちあかぬ、文法的否定)。 私:そういう事。きりがないので語彙的否定はここまで。続いては否定対極表現「さらに」「つゆ」等。 君:ほほほ、陳述副詞ね。否定文との係り結び、あるいは仮定条件との係り結びとか。 私:その通り。飛騨方言で行こう。「はや」があるね。アクセントとしては頭高、意味としては「もはや最早」、共通語アクセントは頭高、つまりは飛騨方言は語頭の一音韻が脱落してアクセント核が「は」に移行する。共通語では「万策尽きた。もはやこれまでだ。」などと言うが、厳密には誤用だよね。 君:ほほほ、最早の対象は実は残り時間という事であり、今まで費やした時間ではないという事ね。「たっぷりと時間があると思っていたけれど、もはや数分しか無い。」という意味ね。それを皆が「最早、終了のゴングだ。遂に鳴ったぞ。」という事で、つまりはアスペクトを間違えてしまっているのよね。飛騨方言としては学生さんが「もうすぐ卒業、はや社会人やさ」と言えばアスペクト的には誤用であり、正しいアスペクト表現は「はや最終学年、もうすぐ社会人やさ」という訳ね。 私:そういう事。なんだ、君も随分、方言女子になってきているじゃないか。はや、話す事は無い。 君:からかわないで。 私:おっ、文法的否定ときたか。座布団一枚。続いては部分否定の話題でいこう。 君:ほほほ、それならまかせて。文学の世界の話だから。複合助詞「しも」、つまりは副助詞「し」と係助詞「も」の合わさったもの。口語の「かならずしも」に生きている表現だから、皆様がお知りよね。 私:いや、必ずしも複合助詞を理解しておられるとは限らない。 君:あらあら、最後は二重否定文ね。「無し」にも「有らず」で二重否定。 私:その通り。総括だが飛騨方言は★文法的否定の「ぬ」、★語彙的否定の「だっしゃもない」、★否定対極表現の「はや(最早)」、★部分否定の「必ずしも」、★二重否定の「せんわけではない」といったところか。 君:それと音韻学の命題提起として医学的新発想、つまりは「せず」から「せん」への一発変換説ね。どなたが信じてくださるかしら。ほほほ |
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