大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法 |
形容動詞よ、さようなら |
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私:「形容動詞」という言葉を世に広めたのは吉沢義則、明治・昭和の国文学者、という事らしいね。「所謂形容動詞について」(『国語・国文』二ノ一)。形容動詞と.ラ行変格活用(ラ変)との相違点を挙げて、動詞から分離して形容動詞を設ける必要のある事を論じた。特に注意すべきは、カリ活用・ナリ活用・タリ活用の語尾にそれぞれ「ク・ニ・ト」を認め、副詞との間に一線を画した事。 君:橋本進吉はカリ活用を形容詞の補助活用とすべき事を論じて吉沢説の一部修正を試み、これらによって形容動詞はほぼ学会の定説となり、今日に至るのね。 私:というか、橋本文法の流れを酌む中等文法、所謂学校文法、が戦後に制定され、形容動詞という学術用語の地位は不動のものとなる。 君:それでも戦前は長い論争があったのだし、存在そのものを認めない、という考えも根強いのよね。 私:功罪という事を一言で、良い点は、語彙数の少ない形容詞の欠を補って数が多い事、形容詞と動詞の両方の機能を兼ね備える事かな。 君:罪については語幹の独立性が形容詞よりも更に強くて、直感的には、やはり「体言」+「接尾語」である、という事よね。品詞分解してしまえば、形容動詞という存在は無いも同然という事なのよね。 私:従って僕の立場も、わざわざ形容動詞と名付けなくても、という事になる。 君:簡単にお浚いをお願いね。 私:戦前辺りに生まれた形容動詞だが、これを文語文法に当てはめると形動ナリ・形動タリになる。歴史に名を遺した国学者がまずはギャフンだろう。例えば飛騨なら田中大秀。古語辞典の巻末に必ず載っている。へーえ、私が死んで数世紀の後、昭和の時代にはそんな言い方で文語を解析しているのか、という心境だろうね。奈良時代から既に「盛り也」「いかなる」のような例がみられる。勿論、奈良時代には「いかにあらむ」もある。 君:戦後の学校文法という事が大きいわよね。 私:やったぞ、吉沢先生と橋本先生。中高生は皆、お二人の造語を学んでいますよ。言い切りが「だ・です」なので超簡単。 君:「だ」の語源は「であり」だったわよね。 私:助動詞特別活用(特活)「です」についてわかっているのは使われ出したのが室町あたりから。語源については諸説あるらしい。「でさぶらふ候」「でさう」「です」と変化したと考える研究者が多い。江戸時代前期には「でえす」「でんす」がある。また吉原の遊里に「でありんす」もあった。形容動詞の「だ」も同根だろう。「雨降りだ」は名詞+指定の助動詞、元をただせば「雨ふりてあり」。「雨降りのような」というから、これは形容動詞だろうか。「雨が降るのだ」は動詞「降る」+準体言を表す格助詞「の」+断定の助動詞「だ」、だろうかね。「雨が降るのであり」だろうか。「ここは静かです」これは形容動詞、「これは秋田犬です」これは体言+助動詞。たかが「です」、されど「です」、こんな記事もある。知らなかった「です」の歴史!、『東京語成立史の研究』飛田良文 東京堂出版 1992年、これは読んだ事ないな。 君:ほほほ、ここに方言が入ってくると、更にまたややこしくなるわね。 私:うん。指定の助動詞「だ・ぢゃ」だが、飛騨方言では畿内方言と同じで「ぢゃ」が「や」に変化して、「雨降りや。」になる。意識的には体言「雨降り」+「や」という事だが、東北方言「雨降るだ。」は、「雨が降ります。」という事で形容動詞ではなく、「降る」終止形を使っているという意識ではないだろうか。 君:つまりは結論は。 私:うっとうしいから形容動詞という言い方は止めよう。要は形容動詞はでっち上げの概念。そんなものは無いと理解すれば一番に簡単。要は品詞分解をすれば結局は用言と「てにをは」、つまりは国学に戻ればいいんや。ねえ、田中大秀先生。飛騨方言の解析に口語文法は要らないんや。口語で考えると頭がおかしょうなるんや。「だ」は形容動詞の活用語尾、助動詞「だ」、助動詞「た」(完了・過去)の濁音、助動詞「そうだ」「ようだ」の一部、以上四つ。形容動詞さえなければ「だ」は助動詞。 君:かうべ/をかしく/なる/の/で/あり。ほほほ |
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