大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 文法 |
体言・用言 |
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私:体言・用言というと中高で教わってハイおしまいという言葉だが、古語辞典の巻末の用語集には必ず記載がある。 君:とりたてて書く事も無いわね。 私:勿論そうなんだが、歴史を少し知りたくなって先ほどは調べものをした。 君:結論は? 私:仏教思想、中国哲学(宋学)に行きついちゃうね。仏教には体用という概念があって、本体と作用 (または現象,属性) で,両者は表裏一体とされる。これが言葉の世界に応用されて、体言・用言の概念が生まれた。ただし本格的にこの言葉が使われ出したのは鎌倉。連歌の世界において。 君:ほほほ、「体言止め」。 私:そう、連歌のルールでも大事な規則。発句・脇句・第三句・挙句において脇句は必ず体言止め。 気が付けば 不惑に近い 誕生日 妻が用意の 美味しいケーキ 若しかして お返し大変 どうしよう お花を買って メッセージ書け 君:確かに「ケーキ」で体言止めだわね。でも「誕生日」も体言止めじゃないかしら。 私:当時の概念はそうではなく、海・河などが体言で、舟・浜・千鳥などが用言という事で、話は誠にややこしい。「誕生日」を体言止めと感じてしまうのは中等文法の影響だ。 君:中等文法では、体言は活用せず主語になり得るもの、用言は活用し述語になるもの、と教えるわよ。 私:まあ、一般的にはそうだろう。山田孝雄は体言の本質は「花よ、咲け」のように呼びかけの対象となり得ることであると説いた。「妻よ、ありがとう」、あが妻は可愛い新妻だったのに今では変わり果てておばあさん、がしかし妻は体言であり、用言ではない。 君:つまらない話ね、高校生にとっては。 私:だろうね。さて、活用の有無に基づいて語の体用の別を確立したのが僧契沖「和字正濫鈔」(元禄8、1695)。明治になるや西洋の文法の概念がドドッと入ってきて、体言は名詞・代名詞・数詞の上位分類、用言は動詞・形容詞・形容動詞の上位分類と言われるようになった。国学の学術語たる体言・用言の言葉は見捨てられたのではなく、ランクアップしたんだ。めでたし。 君:ほほほ、仏教思想という事は西洋には存在しない思想。つまり体言・用言を英訳するのは至難の業ね。 私:うん。語変化をする・しないという意味では indeclinable/declinable , inflected language (word) という皮相な言葉もあるけどね。「語変化」の日本語訳は「屈折言語・屈折語」じゃなかったっけ。用言は屈折語だな。Latin is a highly infeclected language, and so is the Japanese language. 日本語は屈折言語だ。用言のみならず体言も屈折する。僕はその解読が楽しくてたまらない。 君:外国人でもたちまちに日本語を身につける人も、そこのところが瞬時に理解できているのよね。えらいわあ。 |
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