飛騨方言では、あなたのことをわれといい(実のことばは、わりぃ、ですが)、
これが実は筆者にとっては飛騨方言の最大の謎でした。
日ごろ使用する言葉ですから目上の方には決して使わない代名詞である事は
筆者がわざわざ書くまでもなく飛騨の人間なら誰でもわかっていることですね。
例えば社員が社長さんに、あるいは生徒が先生に、決してわりぃとはいいません。
つまり a posteriori reasoning です、でも何故なのでしょう。
ええい、もったいぶったいいまわしはやめて結論を急ぎましょう。
実は、われ・我、という代名詞を
第二人称、つまり、あなた、という意味で用いる用法は古典にみられ、例えば古くは
宇治拾遺物語(10-123、13世紀前半)、に、"われは京のひとか?いずこへおはするぞ"(=おまえは京都のやつかい、どちらへいくんだい)、
に記載があるようです。
つまりは、われ、という人称代名詞は中世以降は対等以下の者に対して親しみをこめて
用いられていたのです。ところが、後には相手をいやしめていう場合にも用いられる
ようになったという事です。近松、西鶴などに文例があります。
ですから例えば
なにいっとるんじゃ、わりゃ(飛騨方言)
なにいっとるんかい、われ(河内弁、大阪府)
というジェントルマン佐七が決していわない言葉が
(1)何故、飛騨と大阪の共通方言なのか、
(2)何故、第一人称を第二人称ではなすのか、
(3)何故、しかも相手を口汚くののしる言葉なのか、
もはやおわかりですね、つまり古典的用法が残っているという事なのです。
しかしながら例えば現代文とてどうでしょうか。★僕いくつ?えっ六歳!おおきいね、★じぶんなにしてんねん(=あなた何をしているの)、あるいは、★そんことはてめえでやれよな、などの
文例にも通ずるとは思いませんか、皆様。
蛇足ながらこのような佐七のごたくで納得できればこれも a posteriori reasoning というわけです。
また例えばたった今ですが、なにいってんねん、というキーワードでは相当数のネット情報が
得られますが、なにいってんねんわて、ではヒットゼロ、
そして、自分なにいってんねん、ではやったあ一件ヒットしました。
そりゃそうでしょうよ a priori reasoning も立派に成立しました。
これで佐七の理論も間違いなし、しゃみしゃっきり。
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