筆者の父親ですがその昔、教員だったらしく言葉遣いもそれなりに気を使っているのでしょう、でも私がたまに帰省してお土産のお酒をふるまうとつい、いやあ美味しい、これぞ酒ナリ なんてついつい言いますね。( これぞ酒なる、だっちゅうに。)
さて本題、抱腹絶倒・平安時代から三段の係り結びの破綻ですが、金田一京助氏著・日本語の変遷、を読むとうーむ、考え込んでしまいます。係り結びの黄金時代・平安時代ですが、ハ・モ・タダの係りは終止形、ゾ・ナム・ヤ・カの係りは連体形、コソの係りは已然形であり、これを三段の係り結びの法則と称し絶対に間違っちゃあいけないからね、という事でいわばカンニングペーパーを作って皆さんが一生懸命に和歌をお詠みなさったそうな、でもそれでも間違えてしまう輩(やから)がいる、それを金田一京助氏がこの書で全部あばいて出版しちゃった。
つまりは、係助詞だからこその係り結び則ですが、係助詞を発する事によって既に目的が達せられたも同然です。すでによっぱらっている筆者の父は実はいやあ美味しい、これぞ酒。 と体言止めにすべきでした。どんな動詞にかかろうが実は関係なし、とにもかくにもなんという係助詞を用いるべきなのか、という事が会話においては大切な事なのでしょう。
つまりは都の教養人の方々ですら然り、和歌を詠む場合に気に入った係助詞が出た瞬間にカンニングペーパーを見る事を忘れ、つい詠む、後世に残す(そして金田一先生にあばかれる)という事を人はしでかすのです。会話の世界、方言の世界においては今も昔も更にひどい状況であったろう、という事は書かずもがな。
おまけ 賢明な読者の方はすでにお気づきですね。当サイトは飛騨方言のコーナーです。上記の記述に実は飛騨方言は出てきません。では飛騨方言、これぞ酒やあ。 つまりは、ぞ、とくれば指定の助動詞やの終止形で結ぶ。飛騨方言としてグーでしょ。そして飛騨方言の指定の助動詞や、の連体形は、な、ところがこれぞ酒な。 これは実は飛騨方言ではグーじゃない。つまりは飛騨方言は、ぞ、が来たら、終止形で結びましょう。( いやあ命令形でもいいぞ、チャルメラが鳴る・いまぞラーメン食え! )結局は これぞ酒ナリ も飛騨方言として実はグーだった!!これぞ酒や、いまぞ飲め。(=これこそお酒です。今飲まないでいつ飲むというのですか。)しゃみしゃっきり。
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