「たわけ」を飛騨方言で「たあけ」というのですが、勿論飛騨方言でも「たわけ」は使いますし、「たあけ」の言葉も全国で通じるでしょう、つまりは「たわけ」「たあけ」両語とも現代人に通じます。つまりは「たあけ」はむしろ共通語でしょう。本日は飛騨方言の歴史というよりは日本語の歴史について少し。
ところで奈良時代に「ターケ・タワケ」と発音しても実は全然通じません。実は「タファケ」なら奈良時代の人々にも通じます。意味は同じでタワケ・つまり馬鹿者という事です。つまりは平安時代も中期・院政時代において、日本国語史で、ハ行転呼音という時代を迎えるのです。それぞれの時代でなんと発音されていたのか表にしましょう。
奈良時代 平安時代
粟 アハ アワ
川 カハ カワ
沢 サハ サワ
笑はむ ワラハム ワラワム
顔 カホ カオ
馬鹿者 タハケ タワケ
飛騨は川や沢が多い山国で、その昔は粟しか食べていなかった民百姓ですが、実は奈良時代までは「アハ」を食べ、「カハ」や「サハ」で魚をとっていた、と発音していたというわけです。ところが平安時代に京都の都で新しい言い方が発明され「あわ、かわ、さわ」というようになりました。つまりハ行転呼音の時代を迎えるのです。尤も aha kaha saha (奈良時代)に続いて awua kawua sauwa となっていたのですが、やはり言いにくいという事で平安時代に awa sawa kawa と発音されるようになったのです。
賢明な読者の方はもうお気づきですね、アハ・カハ・サハ、とは歴史的仮名遣いです。平安時代にハ行転呼音が発明され、あわ・かわ・さわ、と発音していたにもかかわらず、言文不一致の極みで歴史的仮名遣いを戦前まで行っていたという事のようです。戦後はあわ・かわ・さわ、と表記すべきと戦後の政府が決めてしまいました。功罪は別として日本語の伝統を戦後の国語教育では切り捨てられたのでした。
話が二転、三転して、また私事にて大変に申し訳ないのですが、私の祖母はてふです。つまりマダムバタフライ・蝶々婦人。私は物心ついた時から何故祖母はチョーと発音するのに表記はテフなのであろうか、という疑問を抱き続けてとうとうこの齢になってしまいました。ところがここまで読まれた読者の方にはすでに答えをお教えしているも同然、実は、奈良時代は蝶はテフゥと本当に発音していたのです。そして平安時代に蝶はチョーと発音するようになったのです。つまりは蝶といえば今も昔も蝶は蝶、ところがテフと言っても平安時代の人には通じない、チョーと言っても奈良時代の人には通じない。
という事です。以上が本当に長い前置きです。
さて本論ですが、たわけ、とは田んぼを分けること、つまり財算分与で子供の数で田畑を分けると誰もが食っていけなくなる、そんな事する家はたあけ、という事でタワケの語源は田分け、つまりは財産は家督を継ぐ長男にくれてやれ、長男以外は冷や飯を食え、という俗説がまことしやかに語られています。が実は残念ながら学術的には間違いです。田分けは語源ではありません。これは落語や漫談の話なのでした。実は冷や飯を食ったのは負の遺産を全て受け継いだ長男だったのかも。
たわけ、の語源は、実は、たはく(戯く、馬鹿なことをする)、です。奈良時代はタファクと発音していたのが平安時代にハ行転呼音が発明されてタワクと発音されるようになりました。その後ですが、タワクは色々な日本語になり現在に至ります、例えばたわごと(戯言)、たわぶれ(戯れ)、たわむれ(戯れ) などです、ここまで書けばどなたも私を信じてくださいましょう。実は日葡辞書の丸写しです、正直な事が佐七のいいところ。以下重要点をまとめに。
まとめ
実は飛騨では、奈良時代まで馬鹿者をタファケ、蝶をテフと言っていた。 平安時代に飛騨工が京の都のハ行転呼音を飛騨にもたらし、馬鹿者をタワケ(タアケ)、蝶をチョーと言うようになり現在に至る。田分けは俗説であり、学問的根拠はが無い。
さて、大和時代にも、弥生時代にも、縄文時代にも蝶は飛騨の空を飛んでいたのでしょう、そして縄文人こそが蝶をテフゥと言っていた可能性があると筆者は思います、ねえ私の祖母・蝶さん。