大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

明治時代・ぶり街道の終焉

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本日のテーマは維新前後の飛騨と富山との間の、人、物、言葉の流れです。ぶり街道については別稿・江戸時代に富山から飛騨に入ってきた言葉をどうぞ。
     維新前     維新後
身分制  士農工商    四民平等
言語   階級方言    自由
武士言葉 武士以外使わず 面白がって誰が使ってもよい
     とても怖い言葉 やがて廃れる
猪谷関所 泣く子も黙る所 ただちに廃止、往来自由
交通手段 徒歩      徒歩     
輸入品  文明品     文明品
輸出品  一次産業品   一次産業品
というような所でしょうね。猪谷関所が廃止され物流は途端にドドッと増えたのでしょうか。私はそう思いません。明治維新になったとて、やはり交通の手段はあいかわらず、テクテク徒歩のみです。昨日までの関所の怖い怖いお役人さんが急にいなくなったとて、飛騨と富山を往来するには歩くしかないという状況は変わっていません。高山線が全通するのはなんと、 1934年10月25日。同日に飛騨小坂〜坂上間が開業し全通、岐阜〜富山間が高山本線に。つまりは明治大正は言うに及ばず、なんと昭和初期まで、高山・富山間はテクテク歩くしかなかったわけ。

実は以上が前置きです。どなたも容易に想像できましょうが、まさか昭和の時代までぶり街道が健全だったわけではありません。ぶり街道の終焉は明治三十五年(1902)の国鉄篠ノ井(しののい)線の開通、明治四十四年(1911)の中央本線の全通です。つまりは江戸時代から明治半ばまでの富山・高山・松本の徒歩ルートが、以後は太平洋側からの国鉄ルートに突然かわって終焉となったのです。

それにしても、賢明な読者の方はもうお気づきですね。昭和九年・高山線の全通までは、富山から飛騨へテクテクと徒歩ルートでぶりが運ばれていた可能性があるのです。生き証人が若しまだお見えになれば、是非お会いして話を聞いてみたい。ブリをお土産に持って私からお伺いします。

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