大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

東京方言

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私:久しぶり、飛騨方言の歴史について語ろう。左七の言いたい事だが、表題から類推できるよね。
君:ええ、わかるわよ。明治の東京方言の影響と言えば、文明開化により飛騨の人々が自由に首都へ行けるようになり、首都の言葉が直接、飛騨方言に影響を及ぼしたのね。
私:うーん、正確な記述とは言えないのでは。
君:あら、失礼。どの部分かしら?
私:影響を及ぼしはじめた、という事だろう。
君:確かにそうね。江戸時代に飛騨と言えば、当初は金森三代の城下町であったけれど、その後は長く天領の時代で明治となるのだけれど、江戸語の影響はほとんどなかったのね。
私:江戸時代は階級方言の時代。つまり身分によって言葉が違っていた。飛騨の人口は大半が農民の時代の江戸時代だったから江戸語の影響は皆無に近かったと思う。
君:明治になり、身分制度が廃止され、全国的に人の行き来が自由になれば、東京方言は飛騨に影響を及ぼし始めるであろう事は容易に推察できるわね。
私:ただし、その東京方言が大問題。確かに江戸語の延長で首都に言葉はあったが、肝心の首都を、とうきょう・とうけい、どちらで呼ぶか、国論が別れ、暫く決まらなかったほどだ。標準語なるものが制定されたが、父母の事は東京方言では、おとう・おかあ。実は関西の言い方、おとうさん・おかあさん、が標準語と定められた。出典ど忘れ。ネットのどこかにも書かれているはず。首都の警護に当たった人々、これは薩長土肥の武士の人達だ。従って警察関係の日本語の多くの由来はこれら辺りから、という歴史秘話もつとに有名。
君:東京方言そのものが明治の初期は未熟だったのね。
私:その通り。但し、未熟ながらも飛騨方言に直接的に影響を及ぼし始めたのであろう事は容易に推察できる。
君:慎重なご発言ね。炎上のし様が無いわ。ほほほ
私:具体的資料もあったほうがいいね。斐太高校の前身・旧制斐太中学は1886年(明治19年)に開校で、岐阜県では旧制岐阜中学に続いて二番目の歴史ある伝統校。鉄道が全国に敷かれるようになり首都への修学旅行の寄稿文が残されている。
君:JR高山線の全線開通は1934年10月25日、つまり昭和9年だったわね。
私:斐太中の生徒は歩いて中津川市を目指した。目指せ、中央線。中央線は、明治29年(1896)に工事が始まり、明治33年(1900)に名古屋から多治見までが開通、明治35年(1902)に中津川までが開通し、明治44年(1911)に東京から名古屋までの全線が完成した。
君:ほほほ、わかるわよ。明治19年開校時から明治35年までの16年間は斐太中学としては首都への修学旅行は断念せざるを得なかったのね。残念だったわね。ほほほ

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