大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 

東大寺諷誦文稿・考

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東大寺諷誦文稿については別稿・奈良時代の飛騨方言 をご参考までに。 本稿では当時の飛騨工が東大寺で話していた飛騨方言について 考察します。

さて現代風に考えますと、うっかりと以下のように良い風に解釈して しまいましょう。つまりは、平城京・平安京を作ったのは皆、飛騨工の なせる技、そして彼らが作った飛騨国分寺を見ろ、"聖武天皇の詔勅によって 諸国に建立された国分寺で、現在全国で四か寺しか遺っていない 国分寺の一つであり、飛騨国分寺は天平18年(746) に建立され、七堂伽藍を備えていた(サイト・飛騨高山)"といわれるし。 また江戸時代に日本三大祭といわれる高山祭りの絢爛豪華な屋台 を作ったのも飛騨工である。 古代から飛騨には飛騨工の伝統が脈々と受け継がれている、と。

それはそうなのですが、それこそ律令制で第一号で飛騨から都へ派遣された人々 の事を考えてみましょう。 皆、農民でした。大工さんはゼロ。しかも里ごとに十人、すごい数です。 租庸調を免れるとはとにかく飛騨は貧乏な所で何も差し出すものがない、 しかたなく人を差し出した。いきなり名工の技術集団が出来上がった わけではありませんでした。当たり前の話ですけどね。

実は平城京をグランドデザインし、指揮したのは 百済(朝鮮半島)出身のトップ建築家集団だったのでしょう。 百済は660年に滅びます。この時に一万人もが日本に亡命し 奈良に移った、つまり大陸の優れた技術・知識の大量輸入です。 朝鮮半島の人々には申し訳ないのですが、 つまりは頭脳流入の日本がおおもうけです。 またこの人達が日本人の祖先といっては言い過ぎでしょうか。

かたや飛騨工第一号さん達はついこの間まではせいぜい弥生人がご先祖様だった 農民ばかり。早い話が当初はひたすら下働きで徹底的にこき使われたという わけなのです。材木をかついだり、穴を掘ったりして。おまけに言葉が飛騨方言で都の人に馬鹿にされて。 逃亡者もいたそうな。(絶望の選択ですが私は理解できます。) が大方の飛騨人は耐えて、また技術を盗み、続く者に伝承し、 徐々にではあるにせよその実力が認められるようになったという次第です。 また我ら飛騨人のご先祖様は都で建築技術だけではなく、 都の言葉も一生懸命、覚えたのですね。 訛りは徐々に減ったのでしょう、こうやって 古代の飛騨方言は徐々に都の言葉に近づくのです。

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