大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

モーラ方言とシラビーム方言

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モーラ方言とシラビーム方言ですが、ネット情報もありますし、 不肖佐七の方言学用語集にもお書きしています。  飛騨方言は典型的なモーラ方言であり、純東京式アクセントです。 つまりは飛騨人がいきなり大都会東京で東京語を自在にこなして 東京人を言葉の上で演じきる事は十分に可能でしょう。 前置きはさておき。

筆者の村ではテンプラの事を、つきあげ、と言いますので、 いやあ、つい昨日まで、どうも高山・古川あたりでは、テンプラを つかげ、と言うらしい事を知りませんでした。 つきあげであれ、つかげであれ、共にモーラ方言であるところの 現代飛騨方言である事には変わりありません。 つまりはわかり易い例文でお示ししますと・・・

筆者がごとく、つきあげ、しか知らない飛騨人は、つかげ、を話す飛騨人に
あのなあ、わりぃがいっとるその、つかげ、って テンプラの事がよ?おらんどごの大西村でゃあ、つきあげ、って 言うんやさあ。
と話すでしょうね。逆にして然り、
なんやってえ?わりゃ、つかげの事をつきあげって 言うって、おりぃもそりゃ知らなんだ。
というわけ。つまりは、つきあげ人であれ、つかげ人であれ、 生涯に渡ってモーラ方言である飛騨方言を話し続けるわけですから、 一生の間に言葉を変える事はないでしょう。つまりは、筆者にとっては 生涯、つかげ、は、つきあげ、の単なる同意語というわけです。 Nothing else, and vice versa for those who speak tsukage, isn't it?!!

でも、その昔、といってもそもそもテンプラという言葉が日本に入って来たのは、 ポルトガルの宣教師様から、そしてテンプラ文化が全国に広まったのが 江戸時代という事のようですね。 お暇な方はテンプラの歴史をお調べあれ。 江戸時代の高山の町、豪商と言われた方のお家から 飛騨のテンプラ文化が始まったのでしょうね。 そして当時話されていた言葉がどう考えてみても、つきあげ、という訳です。 そしてその言葉が寒村・大西村にいまだに残っているのです。 そして飛騨の都・高山ではすでに、つきあげ、は、つかげ、に なっています。 ねっ、どこかで聞いた話でしょ。柳田國男先生の 方言周圏論ですね、ふふふ。

それはさておき、モーラである以上、 四拍名詞のつきあげ、がいつごろどのようにして 三拍名詞のつかげ、に変貌したのか、 これは飛騨方言の歴史における最大の謎です。 どう考えてもこの変化は江戸時代から昭和時代までの間に 間違いない。これだけはハッキリしているのですけどね。 つきあげが古い言葉である以上、つかげは、以後の言葉、 つまりは、つきあげ以上に新らしい言葉である事は 疑うべくもありません。 当サイトでは、つかげ、を新飛騨方言(ひょっとして明治時代から) としてご紹介申しあげる 事にご理解のほど、何卒お願い申し上げます。 しゃみしゃっきり。

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