大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

数学好き・数学嫌い

戻る

ウエブに発信する場合、大切な事がたったひとつだけあります。多分、ネットも含めてどこにもにない情報だろうから是非とも皆様に知っていただきたい、という気持ちでとっておき情報を発信する事。こんないい情報がありました、と他の情報サイトの紹介記事を大量に書く事などもってのほかです。では早速に本題。

ここは方言サイトなので方言、つまりは国語学の下位分類・方言学の事しか私は書きません。ただし今日のテーマは数学です。私は医者でバリバリの理系の頭ですから英数国の三教科で一番に大好きなのが数学です。大学入試本番においても、国語でしくじったらどうしょう、そんな不安を抱きながら臨んだものでした。大学入試で出される数学は受験生が制限時間内に必ず解ける問題が出題されます。つまりは受験者が何人であれ、必ず百点を取る受験生がいるのです。実は本番では、さあ百点取るぞと意気込んで問題を見たものの残り十数分でしか突然に正解がひらめかず、大慌てで鉛筆を走らせるものの、最後の一行を書く時間が無く、残念時間切れでした・部分点宜しくお願いします、と書いて終わった事をよく覚えています。時間があと三分あれば余裕で百点満点、見直しの時間すらあったと思います。つまりは高校数学程度なら、時間さえあれば、解答は容易です。

また前置きが長くなってしまいました。方言学で一番にてこずるのが、いわゆる、俚言(りげん)の語源問題、という命題でしょう。俚言とは方言のなかの方言、つまりは全国広しといえどもその地域のみでしか話されない特殊な言葉です。俚言以外の方言、つまりは全国各地で話される言葉で既に中央で話されなくなった方言については、その語源探求は極めて容易です。そのほとんどが蝸牛考の周圏論で説明が可能で、古語辞典のどこかの単語がその語源ですから文献的な探求も可能というわけでしょう。だしかん・だちかん、の語源は、らちあかぬ、ですが、これはそもそもが俚言ではなく、ネット情報、各種方言辞典にも詳説がありますから簡単すぎて論外です。

ところが俚言はそもそもが書き言葉では無いケースが大半で、つまりは民衆の話し言葉であり、早い話が土地の人しか理解不可能、古典もなく、文献も無く、語源は何処にも答えが書いてありません。でも昔の何かの言葉が音韻変化をして現在の俚言になった事だけは紛れも無い事実ですから、語源そのものは必ずあるはずです。この一点において、数学問題と俚言の語源問題の共通点があるのです。必ず答えがあるのだから解いてみてね、といって出題された問題というわけです。

次の段階のお話に移りましょう。数学好き・数学嫌い、両者の違いです。数学好きは答えがわかるまでひたすら問題に食らいつきます。そして遂に答えが天から舞い降りてきて、解答をみてにんまり、その瞬間に至福の達成感を味わうのです。ところが数学嫌いのタイプは見た瞬間に或いは解く途中から、ああだめだ絶対解けない、と思ってしまい、ますます解けなくなってしまう受験生でしょう。ですから無頼の数学好きの私にとって俚言の語源問題はまさに蜜の味、こんなおいしい問題はありません。これを言ってはおしまいですが、ごめんね、・・・私は高校三年生で全国模試で一人だけ数学が満点の事がありました。

例題に参りましょう。てきない、の語源探し。飛騨方言では、苦しい、という意味です。これは少し手ごわい問題です。ネット情報がありません。各種古語辞典の単語を片っ端から読んでみます。ところが該当単語無し。続いては各種の国語辞典を引いてみます。ここにも該当単語無し。その作業で二、三か月かかりました。ただし乗りかかった船ですから今更あきらめたくはありません。必ず各種の辞典のどこかに解答が潜んでいるはず。つまりは、て・き、あたりが音韻変化する以前の重要音韻だろうと狙いを定め、絞り込み作業に取り掛かります。ふふふ、あったぞ。大儀なり。これが答えに違いありません。これを思いつくのに、やはり一か月ほどかかりました。大儀なり>大儀な事>てきない事>てきない、という音韻変化の結果として独立品詞・俚言形容詞てきないの完成です。これを思いついて既に十年以上も経過していますが、私の満足感は未だに続いていて、私の頭は今もお花畑状態です。何か月も苦しかったけど、解答があると信じて疑わなかった私。私が数学好きの所以です。

最も難しかった問題が、がで、の語源探求でした。飛騨俚言では、分量、の事を示します。漬け物のガデがある、と言えば、漬け物の分量が多い、という意味です。てきない、を解いたのと同じ作戦で、手元の幾つもの辞典を幾晩も一語ずつ調べました。ところが遂に候補単語無し。絶体絶命です。でも諦めたくない。残る可能性としては、つまりは語頭の音韻がいつしか脱落してしまって、語幹の音韻だけが残り、しかもそれが、がで、に更に音韻変化したのだろう、と考えました。となれば解法はひとつ、脱落した音韻は何か、あれこれと考えてみるのです。簡単に脱落するような語頭の音韻である以上、元の単語のアクセントは頭高では無く、平板でもなく、必ず尾高アクセントのはず。それにしても消失してしまった音韻とはいったい何なのか、そんな事を数か月も考え続けました。

季節が変わってしまって、考え始めておおかた一年もたったある日、さあ今日も、がで、の解法を考えようとしていてしばらく、突然に天から答えが舞い降りてきました。がで、の語源って、若しかして、使い出、かな。わなわなと体が震えます。意味的にも、音韻学的にも、ピッタリあっています。しかも方言学の各種の専門書、各種の語源辞典も片っ端から読み返してみましたがどこにも書かれていない情報です。

はたしてこんなお遊びが有意義な事なのか、それは家内も、子供達も、誰も理解できません。家族がわかっている事はたったひとつ、お父さんは飛騨方言の事をとても楽しそうに書いている・昔から本当におかしな人間。家族に変人と言われてもいいけど、それでも家族に一言、私が飛騨の俚言を考え詰めた生きざまだけは理解してもらいたい。これが私のルーツ。そして皆様には私が、学問を愛し、無邪気で、数学好きな、飛騨の出身の(とても幸せな)町医者である事を感じ取っていただきたい。

おまけですが、数学問題と俚言の語源問題には、根本的に違う点がひとつあります。数学では解答はたったひとつですが解法は複数あり、如何にスマートな解法で素早く解答にたどり着くか、が問われますが、俚言の語源問題の解法はただ一つ、ひたすら辞典を一ページずつ、一単語ずつ見ていく事。解こうと思えばこれっきゃない世界ですかね。つまりは解答もひとつならば解法もなんとひとつだけ。おそがい(怖い)世界なんやさ。必要なものはコンジョリティだけ。そこがまたええとこで、数学より面白いんやさ。暇つぶしやさ。笑ってくれんさい(くださいな)。

ページ先頭に戻る