大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

司馬遼太郎・街道をゆく・飛騨紀行

読書の秋です。直接に方言とは関係ない話という事で、あれこれアップロードするべき事柄ではないのですが、しかし実は重要資料という事で、また読書の秋という事で氏の街道をゆく・飛騨紀行の読書談をきままにお書きします。飛騨方言に興味のある方が読まれて決して損はしません。

さて高山市をはじめとする行政や個人が発信する飛騨の歴史に関するネット情報が現時点で、如何に貧弱な内容であるかという事です。書きすぎかもしれませんが、つまりは昨晩にこの書を読んで一瞬ですが、なあんだ上記のネット情報発信者の方々は実は司馬遼太郎の飛騨紀行を読んで必要な箇所だけを抜書きしてアップロードしていたのかい、と思ってしまったくらいです。

古歌にあらわれる飛騨

飛騨工の云われ、具体的エピソード、飛騨で産する馬、またそれらをテーマに詠まれた古歌数首について詳述しておみえです。私にとっては随分と役に立つ書でした。あれこれ書きたい事が出てまいりましたが、この書のどの部分に啓発されたのか、いずれまたお書きしましょう。

戦国武将等の生き様

もう一点ですが本日はこれがテーマ、実は飛騨方言の歴史とかつての飛騨の為政者の出身、という事です。司馬氏は膨大な資料を渉猟し同書で飛騨の為政者の移り変わりを詳述しておみえです。人物一人一人に対して人物像を想定し、ひととなりにまで踏み込んで書かれている点はさながら小説を読まされているようで楽しい読書の時間でした。

お忙しい読者のために結論からお書きしましょう。飛騨方言の成立に同代の為政者が如何にかかわっていたかという事ですがつまりはその影響はゼロであろうという事です。ところで、司馬遼太郎氏は戦国武将に対してはっきりと好き嫌いで書かれるのですね。

古川町の方々はがっかりなさるでしょう姉小路家綱という人物ですが、実は数人の家来を引き連れて京の都からフラフラとやって来たお公家さん、戦いのタの字も知らず、同代の古川豪族幾人かの単なるお飾り物として祭られていた人物のようです。つまりは古川町は古い町、高山と同じく小京都である、室町時代に姉小路の支配により、京都文化が栄え、言葉に京都の影響がある、などとは努々(ゆめゆめ)お考えにならない事です。飛騨方言は確かに京都言葉の変形、がしかしそれは平安時代に飛騨工が京都の一年の単身赴任生活を繰り返したからの事、しかも各村々から十人ずつ。平安時代には飛騨の庶民の数割が実は京都へ一年間出張していたという事実は無視できません。京都のお公家さんが数人のお供を連れて一時飛騨に住もうとも、飛騨方言の成立にはなんら関係ないことです。

松倉城を築き高山を平定した萩原の三木自綱に司馬氏がつけるあだ名がギャング。教養知性ともにゼロの人物だそうです。織田信長に取り入り彼の前で能を舞う場面の事も書かれていますが人品いやしい事極まれり、そして末路よあわれ、三木がなぜ故にかくも司馬氏に嫌われるのかは読んでのお楽しみという事で。勿論、三木自綱の飛騨方言への影響はゼロでしょう。下呂市民の皆様へ、三木自綱を拝み奉る事はおやめになったほうがよろしいかと思います。恥をかくだけかも。

金森長近については司馬氏の評価は極めて高いのです。徳川家康に比す武将中の武将という事で絶賛しておみえですね。とにかく乱世を生き抜くには人並み外れた知性・体力・人望がなくてはいけない、それを全て備えて見事に生き抜いた人物という評価です。出身は実は不明、一説には近江とも、とにかく生涯を戦いに明け暮れ、日本国中を駆け回った武将の安住の地が高山、その後六代続く一世紀の善政が飛騨全体を豊かにした、という事のようです。勿論、前二者同様に金森の飛騨方言への影響はゼロですが、飛騨高山の町を小京都と今の時代に言わしめるその土台を作った人物という事です。つまりは佐七は言いたい、歴史的には金森長近こそが名誉飛騨高山市民第一号なり、そして最近がノーベル賞の白川英樹博士。飛騨市、下呂市の皆様の癇に障る書き方で大変に申し訳ないのですが、どうか冷静に飛騨の歴史をご判断ください。

幕藩体制についても司馬氏・飛騨紀行は触れますがやはり天領制が飛騨方言に及ぼした影響は無いでしょうね。ところで最後の郡代・新見内膳については具体的に記述されていますがこれがまた一段と小説風で泣けてきます。彼は幕府の瓦解を高山で知った。そして鎮撫使という新政府の長官が来るらしいと知った時、この上は将軍と生死を共にする旨を部下に伝え、いずれやってくる鎮撫使を丁寧にむかえよと細かに指示し、また俵米すべてを地元民に与え、部下を全て残し、ひとり陣屋の裏木戸から江戸へ向かった。2006/10/05