大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム

国学者・田中大秀

飛騨からは総理大臣が出た事がない、まあそんな事はどうでもいいとして、ノーベル賞の白川英樹先生はじめ、学者さんを多く輩出していますものね。そのおひとりが、江戸時代の国学者・田中大秀(たなかおほひで)です。飛騨方言の勉強には古語辞典が手放せませんが、天下の旺文社古語辞典の巻末の重要系図・学統表をご覧あれ。平田篤胤と並ぶ本居宣長の直弟子でした。

ところが筆者が残念な事には、田中大秀の業績になかなか方言に関するものが出てきません。飛騨を詠った和歌がありますが、飛騨方言とは関係ありません。随筆、書簡とて本居宣長の玉勝間のような書き物がある訳で無し、どうにもこうにも国学一筋に生きておみえですね。まさか、飛騨方言を"おぞくたい"○●●▼○(=よくない)言葉と考えておみえだったのでしょうか。

ところが堅物の学者さんではなかったようです。なんと飛騨の高山祭りの初代の実行委員長。つまりは祭りの発案者だったのでした。祭りの"やわい"○●●(=企画準備)といっても、予算の事もあり、屋台を作るにも設計図は要るし、職人が要り、当日の"まわし"○●●(=段取り)等々、大変だったでしょう。高山祭りが今日あるのは、みいーんな田中大秀翁のおかげなんやさなあ。国学者が実は日本一のお祭り男とは、陽気な人であった事は間違いない。

それでも佐七にとって国学史上の最大の謎ですが、田中大秀は何故、飛騨方言について書き記さなかったのでしょう。飛騨方言って、若しかして高山祭りや王朝文学と異なり、おぞくたい言葉ですか。