大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
都竹通年雄(2) |
このコーナーを13年ぶりに再開しました(2020/01/27)。感慨深いものがあります。えっ、なぜ十数年ぶりに再開したのですって?それについては何れまたお書きする事もあるでしょう。一言、このサイトはあるひとつの思いによって再開された、としておきましょう。前置きはさておき。 都竹通年雄先生と言ってもご存じない国民の皆様が大半でしょう。戦前・戦後を通じてご活躍なさった国語学者、ご専門は方言学、なのですが、ご出身は岐阜県下呂市萩原町尾崎。その昔に、戦前ですが、東条操という学者がいらっしゃって日本の方言学の礎をお気づきになった先生なのですが、彼の直弟子・一番弟子が都竹通年雄先生です。ネット情報から彼の生い立ちその他を知る事は不可能に近く、また故人となられたお方ですし、実は彼の故郷・益田郡萩原町旧川西村尾崎には彼の痕跡は一切、無いのです。すみません、また前置きになってしまいました。彼の著作集に生い立ちが小コラムで書かれています。全文を紹介するにも、ご遺族に引き継がれる著作権に抵触する可能性があり、要点のみを列挙しましょう。 ★1920年、岐阜県益田郡川西村尾崎の生まれ。 ★ご両親も尾崎の生まれ。 ★5歳で萩原町萩原に引っ越し。 ★10歳で東京の中野に引っ越し。 ★1936年、大病で入院。病床の慰みとして飛騨萩原方言文法を四年に渡り記述。 ★1940年夏、快癒し、故郷・萩原を訪れ、自身の記述に間違いがない事を確認。 ★1940年暮、東条操先生を自宅に訪問。認められ弟子入り。 ★戦後も全国をくまなく方言調査し、東条操の方言区画論に深く貢献。 ★法政大学卒。 ★1974年都立大学大学院修了。 ★1980年富山大学教授。 いやあ、すごいですね。大拍手、キーワードは独学。飛騨にもこんなすごい大先輩がいらっしゃったのでした。54歳で大学院修了、晴れて文学博士、というお方は私、前にも後にもこの人以外に存じ上げません。また60歳で大学教授、普通には退官する年代なので、これも人生粘り力の勝利というか、立派なお方というしかありません。 それでも一番に素敵な点は実はたったひとつだけでしょう。人生で最も多感な時代、つまりは高校生時代を入院生活、病床での彼の唯一の慰みは故郷・飛騨萩原を思い、ひたすら幼い頃、小学校時代までに覚えた母語たる飛騨萩原方言の記述に励み、なんとそれこそが実を結んで東条操先生との出会いという、結果的には素晴らしい人生の転機となった訳です。時は戦前、暗雲立ちこめる国際情勢、国威発揚の真っ只中、時枝文法がもてはやされた時代です。時枝誠記(ときえだもとき)は国語学者、六高、東大、上田万年,橋本進吉に師事、東京帝国大学教授、ここまでは良し、後は帝国政府の御用学者。嗚呼 このような時代背景に都竹通年雄先生の人生感には筆者は素直に共感できるものがあります。都竹先生は小学生で既に東京の人でした。彼が故郷を訪れる事ができたのは20歳の時、十年後です。彼が大切に自分の宝物としていたのは時代の寵児・時枝文法ではなく、飛騨萩原方言です。時枝文法はある種の観念論といってもよい内容ですが、都竹先生が彼の記載事実を確かめたのは実際に10年後に故郷に帰省して、人々の話し言葉を自身の耳で確かめたという、ザ・フィールドワークです。学問の手法に違いがある、というのはこういう事を示すのでしょう。 もう一点ですが、長年の謎が解けました。私は手元にある私の出身校・斐太高等学校の卒業生名簿に都竹先生の名前が無いのが不思議でしかたなかったのです。都竹先生は小六から東京にお住まいだったのね。失礼しました。でも、都竹先生のご両親のご職業って何だったのだろう。私なんか・・先祖代々、高山市久々野町大西村。悲しい事に今も。然も百姓。旧家だったらしく、仏壇の過去帳が寛永に遡るのが唯一の心の慰み。でも私が小学生で東京に引っ越していたら故郷の事なんか真っ先に忘れていたのでしょう。 |