大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム 方言学

コードスイッチング

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私:この外来語は適当な和訳が無いらしい。英語の綴りは code switching コード切り替え、どういう意味だろう?
君:ノーヒント、日常の言葉から類推しなさい、という意味ね。コードレス掃除機とか、電話のコードというから、電気信号を通す線、これの切り替えという意味かしら。
私:正解だ。コードレスアイロンもあるし、我が家はコードレス掃除機じゃなくてお掃除ルンバ。あれは本当にいいね。
君:手短にね。方言のお話でしょ。
私:うん。言語学における電線の切り替えとはどういう意味かな?
君:ほほほ、ヒントをくださったわね。スイッチを入れたり切ったりと言えば、ある言語を話したり話さなかったりという意味でしょうけど、切り替えという事は、脳内には複数の言語中枢があって各々のスイッチを入れればたちまちにその言語脳が働きだすという事。但し入れられるスイッチは常にひとつだけ。つまり、同時に二つのスイッチを入れる事は出来ない仕組み。スイッチの如く瞬時に言語を切り替える事が出来る人間の能力の事を言い表しているのよ。ただし形而上学の最たるもので学者のお遊びの言葉ね。空想。幻想。
私:正解だ。英語からの翻訳という事は、西欧ではバイリンガルは当たり前、瞬時に言葉を切り替える。日本人ならさしずめ同時通訳者。方言の場合はどう?
君:話者が生育した環境で獲得した方言と学校教育で学んだ共通語、この二つを瞬時に使い分ける事を言うのね。
私:そう、飛騨出身者同士なら飛騨方言で話すのが普通だろうが、そこへ東京出身の人が割って入ってくれば彼に対しては瞬時に共通語を使いだす。難しい事でも何でもない。
君:今日のテーマはあまりにもありきたりね。
私:コードスイッチングには二種類ある。
君:とは。
私:では本論だ。「場面間(situational)」切り替えと「会話内(metaphorical)」切り替えの二つだ。意味はだいたい想像できるよね。
君:方言の場合、場面間切り替えとは、あらたまった場面では共通語を使い、打ち解けた場面では方言を使うという意味ね。
私:それはそうだが、聞き手と話者の人間関係がからむ。同郷同士かどうか。打ち解けた場面でも初対面の人に方言丸出しは勇気が要るね、
君:最初は双方が、相手が同郷でないのではと疑って共通語で開始し、お互いが同郷と分かった瞬間にコードスイッチングするのよね。
私:その通り。また逆に同郷同士でも、少しばかりまじめな話になりますが、とか、俺は怒っているんだぞ、という場合に突然に共通語に戻す事もある。
君:それって会話内切り替えという事じゃないの。場面は変わっていないわけだから。
私:正にその通り。同郷同士でも共通語を主体とした会話の中にアクセントとして方言文をちりばめる事もある。これもコードスイッチング。
君:いわばバイリンガルなのよね。
私:うん。ただし日本中、皆がそうかと言うとそうではない。地域性がある。
君:とは。
私:結論を急ごう。話者分類に基づく地域類型化の試み : 全国方言意識調査データを用いた潜在クラス分析による検討 良く引用される有名な論文。
君:手短にお願いね。
私:関西人はあらゆる場面で関西方言で押し通し、東京人はあらゆる場面で共通語で押し通す。関西人と東京人はコードスイッチングしない人種。残りの日本人は使い分け派かどうでもよい派の二種類。
君:飛騨人は使い分け派ね。
私:うん。論文では使い分け派を、積極的使い分け派と消極的使い分け派、に二分している。積極派は沖縄・九州・東北・中国。消極派は北関東・甲信越・東海北陸。
君:積極派と消極派を分けるポイントは?
私:方言が好きなのが積極派で嫌いなのが消極派。飛騨は東海北陸なので消極派。つまりは地元・身内の間でも時に共通語を使う。逆に積極派は地元・身内の間では絶対に共通語を使わない。
君:なんとなくわかる気がするわ。
私:仮想空間はともかく、君と僕が再会したら飛騨方言で会話をするだろうか。
君:しないわね。
私:そう、しないね。絶対にしない、といってもいいかもね。懐かしさのあまり、つまりは感極まって、という事でも飛騨方言は出ないだろう。同じ同郷の身なのに。
君:消極的使い分け派には飛騨方言が嫌いだ・共通語を好むという心理が働くわけではないと思うわ。
私:君と僕が同郷なのに飛騨方言で会話をしないのにはたった一つの理由がある。
君:理由?
私:恥ずかしいから。
君:ほほほ、それは言えるわね。
私:何時間話そうが、最初から最後まで共通語だろう。多分、飛騨方言は出ないと思う。
君:言えるわね。
私:多少の使い分けはするだろう。実は飛騨方言でも共通語でもどちらでも構わない・一番大切なのは会話の内容だ・話す心だ、と言う心理だろうな。
君:そうなのよ。あなたと私の事はそれくらいにして、次の話題としては、積極派の場合は正式場面では共通語を好み、身内・同郷では方言を好むという意識がはっきりしていて、正式場面で方言は恥ずかしいから使いたくないという心理・身内同郷人に対して共通語は冷たい感じだから使いたくないという心理、以上の二つの心理が働くのね。
私:うん、要は論文の骨子もそんなところだ。そやで(=だから)あんたとの今日の話ゃ楽しょうて、よう気が合ったで、うたてぇこっちゃったえな。これが今日のオチやさ。おまけだが、コードはマークするしないも大切。Marked and Unmarked Choices of Code Switchings in Bilateral Poetry
君:あーれこーわいさ。左七が突然に metaphorical code switching してまったもんで、私にも飛騨方言ごっこの病気がうつってまって。今日の結論、左七は東海地方の人間なれど実は積極派なのね。ほほほ
cf. Translanguaging and Code-Switching: what’s the difference?コードスイッチング改めポーカーゲームに例えたらどうでしょう。人間の脳は複数言語というトランプカードを持っているのではないでしょうか。そして人は相手の腹を探りながら一枚のカードを切り続けるのです。カードには文字情報が書かれています。各言語の定型文である事は書かずもがな。会話とは定型文というカードを相手に示しあう事なのでしょう。沢山のカードを持っている人は表現力豊かな人という訳です。また逆に、気持ちが通じ合えば言葉は要らないでしょう。

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