大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
チョムスキー理論 |
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私:チョムスキーという米国の言語学者がいらっしゃる。チョムスキー理論について語ろう。まずは LAD。 君:数分の英語を更に日本語で一言で表すとどうなるのかしら。 私:それは素敵な提案だ。チョムスキーは唱える。人間のみが言語を持つ。何も言語を持たない赤ちゃんが言語を獲得する仕組みがある。人間の発達脳に生来、備わっている仕組み LAD である。LAD は地球のすべての言語のうちのたったひとつを自然に獲得できる万能装置。しかも3歳から10歳の間という生涯に一度しか働かない。この間に母語の文法と語彙を学ぶ。 君:つまりは日本人の両親のもとに生まれ10歳まで育った子供は日本語が完成という事で、どんなに努力しても英語が母語になる事は無いのね。 私:・・絶対に無理です。でも、いいじゃないですが。日本語最高だよ。日本語のどこがいけないのかい。英語のどこがいいのだい。というようなお話だね。 君:でもあなたは英語もドイツ語も大好きなんでしょ。 私:日本語で英語もドイツ語も理解し、つまりは日本語という知性で外国語問題を解決している事になるね。僕の娘の話をしよう。 君:長女のお方ね。 私:僕が30歳の時の子供だ。僕は33歳で二年間(1986-8)、米国に留学。つまりは娘は三歳と四歳半の間をまるまる米国で過ごした。まわりに日本人の子供なんてひとりもいない世界に連れ込まれたわけだ。 君:へえ、それじゃあ、あなたと奥様が娘さんに英語をお教えになったのね。 私:ははは、とんでもない。一切、教えていない。 君:えっ、それじゃあ、お嬢さんは子供なりに苦労なさったでしょ。 私:アパートを借りて生活が軌道に乗った。僕は毎日、大学病院へ出勤する。家内と娘は家で二人で遊んでいた。ただし、やはりキンダーに入れたほうがいいね、と夫婦の気持ちがそろい、大学が運営するキンダーに通わせた。 君:娘さんの反応は。 私:その前に、親として娘にはこう言って聞かせたんだよ。「お父さんの仕事は2年で終わる。終わったら必ずおじいちゃんとおばあちゃんの所へ帰れるからね。それまでお前は肌も言葉も違うお友達とこの国で遊ぶのが仕事だ。言葉は一切、覚えなくていいから、兎に角、お友達を沢山つくってくれ。」 君:あら、そうだったの。お嬢ちゃんは言葉も判らずキンダーではひたすらお客様だったのよね。 私:そう、お客様。「お友達が何を言っているかわからないから辛い。でもお友達と遊ぶ事は楽しい。」とか言ってたな。 君:若しかして、あなた方ご夫婦はお嬢ちゃんに徹底的に日本語教育をなさったという事なのよね。 私:ああ、勿論。その当時、僕がチョムスキー理論を知っていたわけではないが、僕はこう考えた。つまり、家族は二年後に帰国する。つまり娘は日本人として日本の初等教育をうける事になる。つまり、娘に英語は要らない。娘に必要なのはキチンとした日本語。 君:ほほほ、それでどうなさったの。 私:日本の義理の祖父母に毎週のようにテレビのアニメをVHSに録画していただいて、せっせと郵送していただいた。毎週のように絵本その他、日本語のコンテンツが届いた。それらを用いて必死に娘に日本語を教えた。二年間、徹底的にやった。おかげさまで娘は日本の童謡が数百曲、歌えるようになった。日本昔話が大好きな子供に成長した。天空の城ラピュタのアニメを親子で何十回、いや、何百回、米国で鑑賞しただろう。主題歌・君をのせて、を親子で何百回、米国で歌っただろう。 君:まあ、そんな事が。 私:「君をのせて」の歌は僕の米国留学の思い出と不可分だ。家では英語は一切、禁止。日本語でなんというか、慎重に語彙を選び、娘の脳みそに英語が染みつかない事を心掛けた。 君:チョムスキー理論を知らなかったあなたがチョムスキー理論の実践家だったのね。 私:まさにその通り。人間は人間である限り、どうやったら正しい子育てが出来るのか、いちいち教わらなくても直感でやればいいんだよ。 君:でも自然に英語は身についたでしょ。なにせ周りが米国人の子供達ばかりなのだから。 私:ああ。バイリンガルってやつだね。帰国間際にはごく普通にペラペラと英語を話していた。私も家内も一切、英語は教えていないのに。 君:ほほほ、じゃあ帰国後の娘さんは英語はお手の物ね。 私:ははは、それがそうじゃない。 君:えっ、どういう事。 私:帰国したのが五歳半。英語はピタリと話さなくなった。 君:あら、もったいない。じゃあ、こんどこそ両親が日本語じゃなくて英語を教える時代に突入したのかしら。 私:ははは、そんな事もしなかったね。ただし、親戚の集まりがひかえていて、帰国子女なら英語は話すだろう、なんてとんでもないお言葉が出かねないので、大慌てで娘を駅前の子供英会話教室に入学させたよ。少なくともワン・ツー・スリー・サンデー・マンデーぐらいは言えるようになって来い、と娘には念を押した。 君:へえっ、そんなものなのね。 私:その通り。二年かかって自然に覚えた英語を一週間で忘れちゃうんだよ。 君:駅前の子供英会話教室で覚えたワン・ツー・スリーは。 私:親戚の集まりの次の日には忘れていたな。ははは 君:そんなものなのね。 私:その通り。判り切った事だ。僕は全然、がっかりなんかしていない。傑作なのが娘が中学生になった時だった。 君:英語を学科として習い始めた時、幼少期の二年半の米国生活の記憶のスイッチが入り、たちまちに英語が得意科目になったのよね。 私:ははは、その逆だ。初めて習う英語ってなんだか好きになれない、ってな感じだったそうだ。 君:ふーむ、考え込んでしまうわね。 私:考え込む必要なんてないよ。ひとつ言える事は、僕が幼少期の娘にきちんと日本語だけを教えた事は決して間違いではなかったという事だ。そんな娘も、医者になり、米国の学会で発表するようになり、英語の論文も書いている。すべては中学生時代からコツコツと学校教育で英語を学んだ努力の賜物だ。幼少期の米国生活は一切、関係無い。 君:米国に住み着いてしまう場合は別の選択肢だったのよね。 私:勿論。その場合は家族の間でも日本語は禁止にしなきゃね。娘の前では夫婦の会話すら英語でやっていただろう。話変わって、中学や高校の同窓会では飛騨方言丸出しでしか話さない。飛騨出身以外の人に対しては東京語でしか話さない。 君:わかる気がするわ。ところで「君をのせて」以外に留学の思い出の歌が無いかしら。 私:一休さんも親子で毎日のように歌っていたな。 君:ほほほ、懐かしいわね。私も当時、娘といっしょに歌っていたわよ。 |
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