大西佐七のザ・飛騨弁フォーラム |
ソシュール学説、シニフィアンとシニフィエ |
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私:最近は言語学について少し勉強を始めました。 友:いやあ、試験がない勉強って最高に面白い、という事ですね。 私:図星。いつの歳になっても試験だけはいやだね。 友:なんでまた面白いのですか。題は飛騨方言と関係あり? 私:あるなんてもんじゃない。大有りだ。 友:おっ、元気のよいお言葉。では、どうぞ。 私:例文と参りましょう。飛騨方言のセンスにあえば○、あわねば×という事で。 餅をくうろ。−−−○ 餅はおいしいろ。−○ 餅はつきたてろ。−× これをどう思う? 友:確かに。「つきたてやろ」なら飛騨方言ですね。 私:そうです。飛騨人は飛騨方言の意味を誰でも知っている。例文を言い換えると 餅をくうやろう。−−−○ 餅はおいしいやろう。−○ 餅はつきたてやろう。−○ これならどう? 友:なるほど、「〜やろう」ならばセンスにあうが、「つきたてろ」ではナンセンスとは。「〜ろ」、「って〜やろう」という意味なのにね。いやあ、考えてみれば不思議だ! 私:おっ、元気のよいお言葉。では、 餅をくうんや。−−−○ 餅はおいしいんや。−○ 餅はつきたてや。−−○ これはどう? 友:でも、「〜んや・〜や」で少し言葉が違いますが。 私:「ん」という言葉は実は接続助詞の撥音便でしょ。 餅をくう事の時や。−−−○ 餅はおいしい事の物や。−○ 餅はつきたての事や。−−○ これはどう? 友:なるほど、ドンピシャリだ。なあんだ、実は日本語ではこのように語の省略があったのか。ソシュールさんが言っているのですか。 私:ソシュールさんが飛騨方言を知ってるわけないでしょう。私が言ってるだけ。彼が言うのは、言語とは、ある音・シニフィアンに対して特定の意味・シニフィエがあり、それは一対一で対応している、といういわば当たり前の事を初めてのたもうた。 友:なるほどねえ、ではそろそろ、餅はつきたてろ。--×、の種明かしをお願いします。 私:飛騨方言に特有の文末詞・ろ、があります。発音は、ro これがシニフィアン。ro のシニフィエは「だろう、」です。そしてここに飛騨方言の文法があり、ro シニフィアンは用言終止形に接続するが、体言に接続できない。 友:なるほど!でも形容動詞にも終止形がありますよ。飛騨方言なら「つきたてや」。 私:ふふふ、でも、つきたてや+ろ、は、つきたてやろ。つまりは堂々巡りじゃないか!! 友:なあんだ、そうか。あなたも面白い事を考えるなあ。ははは、思わぬソシュール学説ですね。 私:いや、実は・・・・ro のシニフィエは上記の議論から明らか、実は「事なのだろう」です。「食う+事なのだろう」「おいしい+事なのだろう」は日本語として通る。「ろ」は用言終止形に接続のみのする品詞であり、体言に接続しない、という意味が実はある。 友:・・なるほど、「つきたて事」は日本語もありませんしね。 私:いや、実は・・・・終止形はもともとは連体形だった、という国語の歴史の意味も含まれているろ。 友:・・なるほど、果てしないですね。 ps 飛騨方言文末詞「ろ」の語源は古語の推量の助動詞「らむ」です。先行する接続は用言終止形、ないしラ変活用語は連体形です。 |
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